サルビアのうた
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とくり…とくり…
それは、今にも消えてしまいそうな、小さな小さな音だった。
私はここにいるよ、と。
まだ頑張れるよ、と。
呼び声が聞こえ、それが自身を示す「名前」という「存在の証明」だと思い出した瞬間、まるで眠りから目覚めを迎えた心の臓という生き物が精一杯にその「生」を主張するかのように、その音はささやかに鳴り始めた。
温かな血が全身を巡り、生きる為に必要なあらゆるものをその「主」に届ける健気な鼓動は、いまだ不安定ながらも確実に音をたてる。
「……暖かい。」
自身の胸に手を当てたナツメはそう呟くと、満開の桜を見上げた。
隣に座り杯を傾けていた男はニヤリと笑うと、
「そろそろ時間のようだな。」
と言って立ち上がる。
つられて腰を上げながら、それでもナツメは戸惑いがちに口を開いた。
「でも、道が……」
名前こそ思い出せたものの、肝心の帰り道…いや、「帰る場所」が分からない、と彼女は俯いた。
だがそんな時、不意にどこからか柔らかな風が吹いた。舞い踊る花びらたちを巻き上げるつむじ風が、まるで小人が悪戯でもするかのように彼女の後ろで、隣で、正面で、小さな薄紅色の渦巻きを作りながら辺りを彩る。
それに気を取られていたナツメの鼻腔を、やがて懐かしい香りが擽った。
「……紅茶の、香り?」
続いて聞こえてくる、クスクスとした少しだけ意地悪そうな笑い声。
一際大きなつむじ風が花びらを踊らせ、それと同時に今度は白檀の香り。
頬を擽るチクチクとした感触。
香ばしい、パンの香り。
頭を撫でる、ごつごつとした大きな大きな手の感触。
次から次へと、彼女に感覚という名の情報を与えるそれらは、導くように現れては消え、また現れる。
帰っておいで。
まるで、そう言っているかのように。
「…道が……。」
気がつけば、目の前には遥か彼方まで続く長い長い一本道。
その向こうから、まるで呼び声のように聞こえてくるのは、不思議な…けれど切ない程の暖かさを感じさせる豪快な笑い声。
「さぁ、お迎えだ。」
隣に立った男が、やさしくナツメの背を押した。
「…本当に?本当に、これで帰れるのかな?」
「それは…」
男は一度言葉を切ると、やがて目尻を下げて優しげな笑みを浮かべた。
その笑顔を、ナツメは見たことがあるような気がした。頭の中の、もやがかかったようなおぼろげな部分にいつもある、その笑顔。
子を思う、親の顔。
「それは、『あいつ』が教えてくれるんじゃないか?」
笑顔を浮かべたままに、男は空を指差した。
澄み渡る青空に、空とも海とも交わらぬ、不思議な蒼。
「青い…鳥?」
かなりの高さを飛んでいるのか豆粒程に小さなその「蒼」を、ナツメは「知っている」と思った。
何処へ行こうとしているのか、その「蒼」は少しずつ青空のキャンバスを移動しているようだ。
「…待って…っ、」
思わず追いかけようと駆け出したナツメは、しかし立ち止まると振り向いて、
「おじさん!名前、何て言うの?」
と問うた。
まさかこの局面でそんな事を聞かれるなどとは思ってもいなかったのだろう。男は一瞬キョトンとしたものの、エッエッエッと独特の笑い声をあげた後、苦笑いをしながら口を開いた。
「んなもん聞いたって、忘れちまうぜ?」
「…それでも!それでもいいから、名前教えて?」
しょうがねえなあ。
そう呟いた男は、苦笑いもそのままに一つため息を付くと言った。
「俺の名前はな………、」
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