サルビアのうた

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厨房に入った時に見た世界が、網膜に焼き付いて離れない。




エースが厨房の前まで来た時、ちょうどステファンが再度駆け出して行ったところだった。転げるように走り去る小さな背中に首を傾げたエースは、廊下に漏れ出る独特の匂いに気が付いて眉根を寄せると、厨房の扉に近付きそれを大きく開いた。
時折窓から差し込む稲光に照らされ浮かび上がる光景は白黒の世界に等しいのに、何故かその赤黒さばかりが際立つのは、入った瞬間から鼻についたむせ返るような鉄臭さのせいなのだろうか。
エースの常人よりも優れた視力は、薄暗い部屋の中にあってもその威力を存分に発揮し、彼に凄惨さを余す事なく伝えた。


「ナツメ…?サッチ…?お前ら、何…してんだよ。」


ブーツを履いた足が一歩一歩ぎこちなく歩みを進めるその足元から、ぴしゃりぴしゃりと水音が響き、その音が彼の脳髄を徐々に麻痺させる。

その水音は、何なのか。
「それ」は本来、そこにあるべきものでは無いのに。
「それ」はついさっきまで、姉と陽気なコックの体内を巡り、彼等を動かしていたはずのものなのに。
なのに何故、自分はこんなにも「それ」に嫌悪感を抱いているのだろう。

大切な家族の、身体の一部だったもののはずなのに。

熱に浮かされたように歩いたエースは、纏まらない思考を持て余しながら二人に歩み寄った。そして倒れている二人の側まで来ると、まるで糸の切れた操り人形が崩れ落ちるかのようにがっくりと膝を着く。


「おい…、おい、なぁ……」


赤く染まりぐったりとして動かない姉の上半身を抱き上げ呼び掛けるものの、その閉じられた瞼はピクリとも動かない。同じようにサッチも抱き上げるが、反応は無い。
目の前のその光景が現実なのかどうなのかもあやふやな、そんな世界にエースは独りぼっちだった。

ただただ、動かぬ二人を揺さぶり呼び掛ける。そんな行為を一頻り続けた後、エースは二人を抱きしめたまま遂に動きを止めた。






「……っ!…スっ!エースっ、しっかりしろい!!」

「マ……ル、コ?」


ガクンガクンと手加減無くエースの肩を揺さぶるマルコは、覗き見た末弟の表情に息を飲む。
この船で家族として過ごしてから二年近く、その間のエースはよく笑いよく怒ってきた。その彼が、今は能面のような顔をしているのだ。まるで表情という表情の全てがこの暗闇に溶け出してしまったかのような、まっさらの表情だった。
呼び掛けに対して我に還ったのか、僅かに瞳が揺れた後に辛うじて返した返事もうわ言のような空虚な響きをもって辺りを震わせる。

これは、だめだ。

マルコはすぐさま厨房の奥の伝声管に向かうとありったけの大声で叫ぶ。


「緊急事態だよい!医療班は厨房へ!!」


白ひげ海賊団が始まって以来、恐らく一番の長い夜が幕を開けた。










嵐に弄ばれるように波間に揺れるモビーディック号は、今まさに戦場だった。


「輸血の準備しろ!」

「サッチ隊長、しっかりしてくれ!」


今夜の当直だったらしい男性の船医や騒ぎを聞き付けたクルー達の怒号が飛び交う中、先ほど伝声管から響き渡った1番隊隊長の声で飛び起きたクロエは白衣を羽織りつつ医務室に駆け付けた。


「状況は!?」

「患者は刺創2名、どちらも出血が酷い!」


当直の船医に確認を取りながらベッドに横たわる患者を見て、クロエは一瞬息を飲む。なぜなら目の前で死に瀕している二人…ナツメとサッチは、この船においても「死ななそう」な部類のはずの人物だったからだ。


「一体、何が……」


何が、この船で起こっているのだろうか。
そう考えたものの、とにかく今は一刻を争う事態だ、と瞬時に頭を切り替えると美貌の船医は治療に取り掛かった。


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