サルビアのうた

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この世の海は一体何万海里あるのか。
長いこと海で生きてきた彼でもそんな事は知らないが、しかしこれだけはこの船の誰にも負けないと自負するものが、ただ一つ有った。
甲板からはいまだ賑やかな宴の声が聞こえてくるが、それとは関係なしに男は上機嫌の様子で手元の分厚い本を読み進める。海の男らしい節くれだった指でページを捲るその本は、一体幾度こうして彼に知識を与えてきたのだろうか、表紙は摩りきれ紙も角が落ち丸みを帯びていた。だがそれすらもまるで愛おしそうに、男は1ページ、また1ページと捲りながら木箱の上に置いていた酒を瓶ごとあおる。

もう、この本に書かれている内容の全ては記憶していた。

だがそれでも男はまるで日課であるかのように、その本…様々な果実の絵が並ぶそれ、世に言う「悪魔の実図鑑」を眺めながら長い夜を過ごすのだった。












四皇白ひげ海賊団の本船であるモビーディック号には、事務室というものが存在する。入口を入るとすぐにカウンターがある八畳程度の部屋の奥に机が並び、書類棚やタイプライター、数種類の電伝虫も備え付けられている、事務室らしい事務室だ。
世の中の多くの者達は、まさか海賊船にこんな一角が設けられているなどとは想像だにしないだろう。

そんな奇妙とも言える場所での、ある晴れた日の朝。途切れる事なく続くカタカタという耳障りな音に包まれて、二人の顰めっ面の人物が書類片手に作業を遂行していた。
鳴り続けるその音はもちろんタイプライターのそれであるし、手にしている書類ももちろん白ひげ海賊団を管理する為の書類なのだが、いかんせん「ここ」が荒くれ共の住み処であるが故に、場違いな事この上ない。
しかし、この船の住人達にとってはこの光景は既に見慣れたものであるし、作業をしている本人達にしてももうそこそこの時をこうして過ごしているので、言わば彼等にとっては「当たり前」の日常なのである。

とは言え。


「た、隊長…、終わり、ました。」

「お疲れ様だ、よい…」


やはり、幾度こなしてもキツいものはキツい。手にしていた書類を積み上げられた紙束の上に乗せた事務員ナツメは、仕事用の眼鏡を外すと目頭を揉みながら疲労も顕に言った。
それに答えた上司であるマルコもまた、疲れの滲み出た表情で最後の書類を机上に放り投げる。
その仕草を目ざとく見咎めた彼女が


「たぁ〜いちょぉ〜?」


などと言いながらジットリとした目線で上司を見遣り、無造作に放られた書類をつまみ上げた。そしてその紙上にのたくった様な文字を見て、一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情をした後口を開く。


「…すみません。」

「お前ェが悪ィ訳じゃ無ェだろうよい。」


頭を下げた彼女の手には、しわくちゃになりソースかなにかの染みまでついた一枚の紙。それにはNo.2の文字と、彼女の弟の署名が。


「再三注意しているのですが、全く面目ないです。」

「よいよい。」

「いいえ、だめです。私、もう一度言って来ます!」

「……よい。」


以心伝心というやつだろうか。
饒舌なナツメに対して単純…というよりは彼らしい返答しかしない上司の声を受けつつ、彼女は立ち上がる。そんな彼女の生真面目な行動に、苦笑いにも近い表情を浮かべたマルコは小さく一つ息をつくと、


「…なら、小一時間休憩にしようかねい。」


と言い彼自身も立ち上がった。



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