小説

□汚れたいだけ
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汚れたいだけ





なんだか最近猫が怖い。
突然ふらりと目の前に現れたそれに、俺はぎょっとした。
恐れる義理はない。この前のあれは轢きかけただけであって轢いてはいない。
だけどなんとなく嫌なものを感じて後ずさった。
1歩、2歩、3歩、

――奇数は鬼門だった事を思い出す。
4歩目、を踏み出した時ああ、やっぱり。と何故だか納得して浮遊感に身を任せた。
(なにかがいつもと違う。)
重力変動が起きたかのように空気に沈みこみながら
やはりそれについて何らかの因果関係を認めずにはいられなかった。


***

「擦りむけてる」

そういうと杉田は俺の足首に軟膏を塗り込んだ。
なんだか子供みたいだ、と思ったがまあいいやと身を任せる。
「何をぼーっとしてたんだ」
穴になんか落ちて。

俺はあのあと整然とした道の間違いのように開いた穴に落ちたのだった。
気を失っていたらしい。
気が付くと冷たい土から染み出た地下水が下肢をぐっしょりと濡らしていて、俺は眉をしかめた。
浅い穴の中で男が気絶していても誰も助けてやくれない。
(流石東京だ。)
痛む体を引きずりながら家路を辿っているとふと気付いた。

――誰も助けてくれなかったんじゃなくて、
――誰も通らなかった?
(あんなに交通量が多い道でも?)

ひやりとしたものが背を伝った気がした。
…視界のはしをちらついて欝陶しい。



特におかしいと意識した事はなかった。
ただいつものように夕飯の時箸を一膳多く並べると、耐え切れなくなったように母親が「いい加減わけのわからない事はやめなさい」といったことがあった。
そこではじめて自分はいけない事をしているんだと思った。

ある時俺はスイッチをぱちんときった。
途端実体は輪郭を無くし、表情も声も失った。
靄のような黒い影と化したそれを俺は忘れようとしたのだ。
そして、忘れた。
見えてた事も過去も猜疑心をもたぬ自分も、忘れて、忘れようとして、忘れた。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。という諺はこのケースに使われるものではない気がするが、そういう風に俺は“見えない”普通の人間へと成り下がったのだった。


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