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□言葉を飲み込んで
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その後は何となく何も話さないまま、私たちは目的地である私の家に着いた。

玄関の扉の前で、男が私をそっと地に降ろす。

「きちんと手当てすればきれいに治るはずです」

男はそう言って私に向かって手を伸ばした。一瞬反射的に、びくっと肩が跳ねてしまう。男は伸ばしかけた手をぴたりと止めると、静かに戻した。
真っ暗な夜の闇の中、月明かりに背を向けた男の表情は、逆光で見えない。
男は戻した手を自分の額に持っていき、指でトントン、と示した。

「前髪が、はねて乱れています」

「え………」

とっさに自分の前髪に手を伸ばすと、確かに乱れていた。急いで両手で直す間、私は男の顔を見ることができなかった。

沈黙が流れる。

「昼間は……すみませんでした」

気まずさに俯いていると、ふいに上から謝る声がした。驚いて思わず男の顔を見上げる。

「あなたを驚かせて、怯えさせてしまって」

私は何も言えずに、ただ男を見つめた。

「これからはできるだけあなたに触れず、近寄りませんから、安心してください」

「え……」

「足、お大事に。…また明日」

男はそれだけ言うと、元来た道を帰って行った。
帰り際、道を振り返るその一瞬だけ月明かりに照らされて見えた男の顔に、いつもの柔らかい笑みはなかった。


***


「おかえりなさい」

母さんが帰ってきた私に声をかける。

「野菜スープとグラタンがあるわよ。食べる?」

「……いらない」

お腹が空いていないわけではない。しかし、食欲がわかなかった。
会話もそこそこに自分の部屋に向かう。母さんが私の態度を不思議がる様子が伝わってきたけれど、気付かないふりをした。

部屋に入るとすぐにベッドに倒れ込んだ。その衝撃で足がズキン、と痛む。眉を顰めて、大きく息を吐く。

「なんで、あんたが謝るの……」

言わなきゃいけないのは私なのに。
“ごめんなさい”も、“ありがとう”も。
わかってる。伝えなくちゃいけないのに。
小さく唇を噛む。私はそっと目を閉じた。

20120623


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