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□三千世界の鴉を殺し
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わたくし、名をおいちと申します。


とある遊郭の遊女にごさいます。

ここでの名は此の糸、どうぞよしなに。


___________




晋助様には随分とご贔屓いただいいております。


初見の時分は随分と険しい目をなさっておいででしたが、回数を追う毎に柔らかく――もっとも瞳に沈む暗い光はついぞ消えませんでしたが――変化して行くように感ぜられました。


時折大変口数の少い晩もございますが、大抵は穏やかな笑みを浮かべ時折冗談なども仰います。
最近ではこのような具合でございまして、表情は少なかれど晋助様も楽しんでおいでかと存じます。




それは春も終わりの月の美しい晩で、何時もの様に何を語るでもなくお喋りをし、わたくしはこれも何時もの様に隣でお酌を致しておりました。

月夜に映える盃の朱が、何とも美しゅうございました。



わたくしは、生温い春の宵の空気に月も水を湛えた朱もわたくし共二人も、艶かしく溶けてしまえばどんなにか素敵だろう…
そのような勝手を思いました。

晋助様はといえば心地好い宵の風とお酒の為でしょうか、大層ご機嫌の宜しかった様でわたくしの腰に片腕を回されゆったりと引き寄せます。

そしておもむろにこう唄うのです。



――三千世界の鴉を殺し―

―――


おめぇと朝寝の一つもしてみてぇもんだな



それから伏し目がちにふっと柔らかく微笑み、その瞳をわたくしの瞳へそっと投げられました。
射抜かれる、とはまさにこのことで御座いましょう。


色、とも慈悲、ともつかぬそのお顔はそれはそれは美しく―いえ、美しいと言う言葉でも足りぬような――そんな風でございまして、あの時のお顔は今でもはっきりと目蓋の裏に残っております。
一体自覚があるのか無いのか、何とも罪なお方だと思えて仕方ありません。

刹那、寂しい色が揺れるように瞳を過ったのもご自覚があったのか無かったのか、私ごときの語れるところではありません。






ややあって晋助様はここへ来い、と胡座をかいた脚に手を置きました。
そのお顔には既に妖絶な色が灯っておいででした。


仰りに従い膝に乗れば肩を抱き寄せられ、そのうち背に腕が周りわたくしはその身体にすっぽりと収まるのでした。

煙と香の香りとあの方の体温に抱かれる、恍惚の時にございます。
見上げて申しました。



――どうぞ良しなに―



そのようにして、夜は更けて行くのでした。




'09 6/6
(→人物及び都々逸解説)
 

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