-花と緑の[外伝]-

□いたる花と緑の 〜タンブルウィザード見聞録〜
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 ここに一隻の船がある。
 時に荒波を越え、嵐を越え、暗礁を越え、それでもなお大海原を駆る。夢を乗せ、想いを乗せ、そうして長きに亘り人々を彼方の地へと送り届けた、傷だらけの船である。苦楽を共にした船員たちにとってあるいは、家族や友にも等しいものやもしれない。
 ここに一つの問いがある。
 時に破れた帆を張り直し、破損した舵を取り替え、穴の空いた船体を補修する。そうして修理に修理を繰り返しやがて、すべての部品が建造当初と別物になった時、果たしてそれは、同じ船だろうか。

 “テセウスの船”――アイデンティティの命題である。
 あるオブジェクトの構成要素がすべて本来とは異なるものへと置き換わった時、それは同一のものと言えるのか。
 物体の本質は何処に在ろうか。物体は何を以ってその同一性を証明されるのか。
 無機物に限った話ではない。生物とて同じことだ。細胞分裂と新陳代謝、生物を構成する細胞は日々入れ替わり、やがてそれは誕生時点とは異なる物体となるのだから。その時それは、果たして同一の生き物と言えるのだろうか。その時あなたは、果たしてまだあなたであろうか。
 生命の本質は何処に在ろうか。仮にそれを魂と呼ぶのなら、人はいまだその存在を立証できてはいないことになる。

 そしてそれは――我々デジモンとて同じことである。

 新たなデータを取り込み、組み替え、排斥し、やがて進化によって身体構造を一新し、時に思考回路さえも書き換える。まるで別の生き物へと変異する我々は、果たしていつからいつまで同じ生き物であろうか。私はいつから私であり、いつまで私でいられるのだろうか。

 ふと瞼を開く。
 目に映る光景は私の視覚が捉え、思考が理解したものか。あるいは眼球というカメラが記録し、電脳核という計算機が分析したものに過ぎないのか。

 “我思う、故に我あり”と、そう語った識者がリアルワールドにはいたという。成る程、こうして思い悩むことが自我の証明に他ならないという訳だ。思うことさえもが仕組まれたプログラムであるという可能性を考えないのであれば、だが。

 命とはなんだろうか。心とは、魂とは、私とはなんだろうか。生命はどこから来てどこへ往くのだろう。私はなんのために生まれ、なんのために存在しているのだろう。
 生きることは果てのない旅であり、私は今日も、その荒野へと歩み出す。何処に答えがあるとも、知れぬまま――



いたる花と緑の
〜タンブルウィザード見聞録〜


▼note.1
「四聖獣と黙示録の怪物に関する考察」
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