□不定期(2018-2021)
12ページ/13ページ
【ダイブ・トゥ・ディープ】
気が付けばマリーは水の中にいた。
差し込む陽光がオーロラのように煌めくエメラルドの海。幻想的な光景に思わずほうと溜息を漏らす。吐いた息が気泡となって海面へ昇っていく。けれど、息苦しさはなかった。
ああ、これは夢だと、ぼんやりと考える。
遠い海面を見上げているとふと影が差した。
目を向ければ逆光の中に人影が浮かんでいた。
二本の脚で泳ぐ様が、なぜだかどこか人魚のようにも見えた。
ラーナモン、と彼女の名を呼ぶ。
ラーナモンは悪戯っぽく微笑んで、マリーの周りを円を描くように泳いでみせた。
ほらこっちよ、と、ぐるぐる目で追うマリーをからかうように。
夢の中でラーナモンに逢うのはこれが初めてではなかった。けれど、いつもとは少し様子が違うようだった。
というのも、一体どうして呼ばれたのかが、わからないのだ。
最初はデジタルワールドへやってきた日、スピリットを手にした日の夜。
二度目はその翌日、初めて進化した日。
それから、ビーストスピリットを手にする少し前にも夢の中で呼び掛けられた。夢で見た場所にビーストスピリットは眠っていた。
彼女が現れるのは決まってスピリットにかかわる何かが起こる時。だと、そう思っていた。
ラーナモンはただ笑って泳いでいた。何かを告げるでもなく、何かを求めるでもなく、ただ踊るように。
首を傾げていると不意にラーナモンがくるりと向きを変え、あっという間に目の前へ迫ってくる。マリーは思わず仰け反ってしまう。
けれどラーナモンは構いもせずにこりと笑い、そっと手を握る。そうして、手をつないだまま泳ぎだすのだ。
手を引かれ、海の中を飛ぶように泳ぐ。
ラーナモンに進化して泳いだことは何度もあったけれど、人の姿のままこんな速さで泳ぐだなんて、勿論初めての経験だった。
ヒレもエラもない肌に重い水流は壁のようにすら思えて、本来なら目も開けていられないだろう。けれどそんな感覚とは裏腹に、瞼は閉じるどころかこれでもかと見開かれていた。
揺らめく光に照らされた珊瑚礁。色とりどりの魚たちが舞い泳ぐ、煌めく翡翠の海。かと思えばラーナモンは身を翻して海溝へと飛び込み、薄暗い洞窟へとマリーを誘う。
壁面に仄かに光るのは群青の鉱石。光も差さないのに自ら発光しているのか、漂うマリンスノーを照らし、まるで夜桜のようにも見えた。
次々と移り変わる景色に、はあ、とただただ大きな息を漏らす。
しかし、ラーナモンの顔は「まだまだこんなものじゃない」と、そう言っていた。
洞窟を抜けると目の前に広がるのは果てのない紺碧。珊瑚どころか海底も見えない深い深い海だった。太陽の光も遠く揺れている。
ラーナモン、と再び呼び掛けるも、彼女はくすくすと笑うばかり。
ひとしきり笑うとその細い指で真下を指してみせる。促されるままに目を向ければ、そこには大きな影があった。
岩礁が動いている、と錯覚するほどに巨大ななにかが見る見る間に迫る。避ける暇もなくその上にへばりつく形になって、それはマリーを乗せたまま海面へと浮上していく。
ざばん、と、白波を蹴立てて海上へと姿を現したそれは、クジラだった。
以前どこかの海で見たホエーモンというデジモンに似ていたが、少し違うようにも思えた。
小島のように浮かぶクジラの上、頬を撫でる潮風と穏やかな波音の中で、マリーは澄み渡る青空を見上げた。
ラーナモン、と、三度呼び掛ける。
後ろ手を組んで、小首を傾げるようにしてラーナモンはマリーを見つめていた。
三度目は、問い掛けではない。問う必要はもうなかった。
心はこの青空のように晴れていた。
雨雲のような憂いや迷いは、広い広い海が飲み込んでくれた。深く深く沈んでいったそれは、もう影さえ見えやしない。
ありがとう、と、笑い掛ければ、ラーナモンは少し照れくさそうに笑い返す。
皆の前では明るく振る舞っていたけれど、無理をしていたつもりもなかったけれど、一人になると、手が震えていたことに気が付いた。“明るく元気なマリーちゃん”を、必死に演じていたのかもしれない。
世界の命運は、その小さな肩にはあまりに重い。
誰に言えようか。吐き出せない弱音を、胸の奥に押し込めた。
それをひょいと摘んで、こともなげにラーナモンは海へと投げ捨ててみせた。
お見通しよ、とばかりに笑って。
それは、アポカリプス・チャイルドとの決戦前夜のこと。
そして少女たちは、最後の戦いへと臨むのであった――
-終-