□不定期(2018-2021)
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【ダイブ・トゥ・ディープ】


 気が付けばマリーは水の中にいた。
 差し込む陽光がオーロラのように煌めくエメラルドの海。幻想的な光景に思わずほうと溜息を漏らす。吐いた息が気泡となって海面へ昇っていく。けれど、息苦しさはなかった。
 ああ、これは夢だと、ぼんやりと考える。

 遠い海面を見上げているとふと影が差した。
 目を向ければ逆光の中に人影が浮かんでいた。
 二本の脚で泳ぐ様が、なぜだかどこか人魚のようにも見えた。

 ラーナモン、と彼女の名を呼ぶ。
 ラーナモンは悪戯っぽく微笑んで、マリーの周りを円を描くように泳いでみせた。
 ほらこっちよ、と、ぐるぐる目で追うマリーをからかうように。

 夢の中でラーナモンに逢うのはこれが初めてではなかった。けれど、いつもとは少し様子が違うようだった。
 というのも、一体どうして呼ばれたのかが、わからないのだ。

 最初はデジタルワールドへやってきた日、スピリットを手にした日の夜。
 二度目はその翌日、初めて進化した日。
 それから、ビーストスピリットを手にする少し前にも夢の中で呼び掛けられた。夢で見た場所にビーストスピリットは眠っていた。
 彼女が現れるのは決まってスピリットにかかわる何かが起こる時。だと、そう思っていた。

 ラーナモンはただ笑って泳いでいた。何かを告げるでもなく、何かを求めるでもなく、ただ踊るように。
 首を傾げていると不意にラーナモンがくるりと向きを変え、あっという間に目の前へ迫ってくる。マリーは思わず仰け反ってしまう。
 けれどラーナモンは構いもせずにこりと笑い、そっと手を握る。そうして、手をつないだまま泳ぎだすのだ。

 手を引かれ、海の中を飛ぶように泳ぐ。
 ラーナモンに進化して泳いだことは何度もあったけれど、人の姿のままこんな速さで泳ぐだなんて、勿論初めての経験だった。
 ヒレもエラもない肌に重い水流は壁のようにすら思えて、本来なら目も開けていられないだろう。けれどそんな感覚とは裏腹に、瞼は閉じるどころかこれでもかと見開かれていた。

 揺らめく光に照らされた珊瑚礁。色とりどりの魚たちが舞い泳ぐ、煌めく翡翠の海。かと思えばラーナモンは身を翻して海溝へと飛び込み、薄暗い洞窟へとマリーを誘う。
 壁面に仄かに光るのは群青の鉱石。光も差さないのに自ら発光しているのか、漂うマリンスノーを照らし、まるで夜桜のようにも見えた。
 次々と移り変わる景色に、はあ、とただただ大きな息を漏らす。

 しかし、ラーナモンの顔は「まだまだこんなものじゃない」と、そう言っていた。
 洞窟を抜けると目の前に広がるのは果てのない紺碧。珊瑚どころか海底も見えない深い深い海だった。太陽の光も遠く揺れている。
 ラーナモン、と再び呼び掛けるも、彼女はくすくすと笑うばかり。
 ひとしきり笑うとその細い指で真下を指してみせる。促されるままに目を向ければ、そこには大きな影があった。
 岩礁が動いている、と錯覚するほどに巨大ななにかが見る見る間に迫る。避ける暇もなくその上にへばりつく形になって、それはマリーを乗せたまま海面へと浮上していく。
 ざばん、と、白波を蹴立てて海上へと姿を現したそれは、クジラだった。

 以前どこかの海で見たホエーモンというデジモンに似ていたが、少し違うようにも思えた。
 小島のように浮かぶクジラの上、頬を撫でる潮風と穏やかな波音の中で、マリーは澄み渡る青空を見上げた。
 ラーナモン、と、三度呼び掛ける。
 後ろ手を組んで、小首を傾げるようにしてラーナモンはマリーを見つめていた。
 三度目は、問い掛けではない。問う必要はもうなかった。

 心はこの青空のように晴れていた。
 雨雲のような憂いや迷いは、広い広い海が飲み込んでくれた。深く深く沈んでいったそれは、もう影さえ見えやしない。
 ありがとう、と、笑い掛ければ、ラーナモンは少し照れくさそうに笑い返す。

 皆の前では明るく振る舞っていたけれど、無理をしていたつもりもなかったけれど、一人になると、手が震えていたことに気が付いた。“明るく元気なマリーちゃん”を、必死に演じていたのかもしれない。
 世界の命運は、その小さな肩にはあまりに重い。
 誰に言えようか。吐き出せない弱音を、胸の奥に押し込めた。
 それをひょいと摘んで、こともなげにラーナモンは海へと投げ捨ててみせた。
 お見通しよ、とばかりに笑って。

 それは、アポカリプス・チャイルドとの決戦前夜のこと。
 そして少女たちは、最後の戦いへと臨むのであった――


-終-
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