-花と緑の-

□第三話 『花とモヒカン狂想曲』
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シーンT:希望の在処(1/3)

 
 ギリシアの神話に“パンドラの匣”という話がある。
 それは神に背いた愚かな人類への天罰。人がまだ出会ったことのなかった恐ろしい怪物たちを、人の世へともたらした禁断の匣。人類の母たるパンドラの手によってそれは、災いという名の怪物たちはこの地上へと解き放たれたのだ。匣を運び、開くがためだけにパンドラを生み出した、怒れる神の目論見通りに。
 だが、すべてがそうなったわけではない。匣を開いたのがパンドラなら、匣を閉じたのもまたパンドラだった。彼女の手によってただ一匹の怪物だけが匣の中へと取り残されたのだ。
 匣とともに人々の手から悠久に遠ざけられた最後の怪物を、誰かはこう呼んだ――“希望”と。
 それは姿なき幻。虚ろな夢。目の前の絶望から目をつむった時、その瞼の裏にしか見ることはできず、手を伸ばそうと決して届くことはない、盲目の希望。だがそれが、あるいは“希望”の真実。所詮この世には縋る藁もないのだという、先人の教訓なのかもしれない。

 だから、あたしはこの希望なき現実を見る目を、そっと閉じるのだ。そうして見えた希望をただ真っ直ぐに見据えて、あたしは、手と手を合わせてこう言うのだ。

「いただきます!」

 丸いお椀を掬い上げるように両手で持つ。縁にそっと唇をつけ、そのまましばし。鼻孔をくすぐる深い香りを十分に楽しんでから、ゆっくりと椀を傾ける。舌を撫でる感触は絹の肌触りにも似て、とろりとしたスープは焦らすように喉を滑り降りてゆく。
 ごくりと喉を鳴らし、はふんと息を吐く。思わず目尻が下がって口角が上がる。

「んまい!」

 何の捻りもない凡庸な感想しか口にできない自分の語彙の無さがもどかしい。いや、本当に旨いものと出会ってしまった時、人は“なぜ旨いのか”など語ることもできなくなってしまうのかもしれない。そう、食べることでしか生きられないすべての生き物は等しく、真の美食の前では無力なのだ。ほろりと、熱い雫が頬を伝う。あたしは自分の握り拳より大ぶりな泥団子をぐわしとわしづかみ、ワイルドに噛り付く。

「ええと……その、大丈夫かい?」

 むしゃりむしゃりとその美味を噛み締める。そんなあたしに、どういうわけかウィザえモンが心配そうな顔をする。今になって言うべきことじゃないけどウィザえモンって言い難いな。誰だこんな名前付けた奴。あたしだ。うん。ウィっさんでいいかな。

「ふぇ? おいお?」

 問い返す。何を言ってるのかさっぱり分からないことは自覚できた。できたので、飲み込んでもう一回。

「んごっく……え、何が?」

 にこりと、おしとやかに微笑んで小首を傾げる。ウィっさんの口がなぜか開いたまま塞がらなかった。

「いやいやいや、泣きながら一心不乱に飯食ってりゃ普通よっぽどのことだろ」

 というヌヌの言い分は、うん、まあそうだね。言われてみれば、あっはっは。その通りね!

「気にしないで。ほら、ちょっと情緒が不安定なの」

 だから心配は無用よと笑って返す。ちゃんと笑えてるかの自信はなかったが、そこに関しては突っ込まれなかったのできっと大丈夫だったのだろう。

「いや、それは十分に心配なのだが」
「自分で言ってりゃ世話ねえな……」

 なんて口々に言う。自ら給仕までしてくれていた村の三星シェフ・ムッシュ土田もまたえらく戸惑っているように見えた。だが大丈夫だ。問題はない。ゴールと思って喜んだら全然そんなことはなくてちょっとびっくりしただけだ。落差の乱気流がただでさえ安定しない思春期の空に吹き荒れただけだ。ちょびっとうちひしがれただけだ。
 あたしは指についた泥ソースをぺろりと舐めて、両の掌をぱあんと打ち鳴らす。皆がびくっとする。あ、ごめんね。

「ごちそうさま!」
「お、お粗末様です」

 ぽかんとする皆を横目に伸びをする。ふぉふーん。あたしゃ満足ですと言葉なく語るような吐息を漏らす。さて、お腹もいっぱいになったことだし、それじゃあそろそろ、

「さあ、本題に入るとしましょうか」

 きりっと顔を引き締める。眉根を上げ、ビームの一発くらいは出そうな鋭い眼差しで皆を見る。皆が益々ぽかんとする。ふふふ、何を驚いているのかしら。情緒は不安定だと、そう言ったはずだぜ?
 
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