□第零夜 原色のイヴ
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0-3 夢路の旅人(1/2)
静かだった。
己の吐息や鼓動さえも聞こえない、しじまの帳に閉じた世界。
暗く、冷たかった。
朔日の夜よりなお暗く、真冬の霜よりなお冷たい。肌から筋繊維、骨子、臓器、神経へ。深く深く、内へ内へと、沈み這い寄るこれが“死”だろうか。
虫の群れを指先で潰すように、脳細胞が一つずつ死んでいく錯覚。思考も凍るよう。今はいつだろうか。ここはどこだろうか。俺は、誰だったろうか。
いいや、知っている。知っている、はずなのに。記憶と認識がどうにも噛み合わない。乱暴に捩切った木片を一つに戻そうとするように、同じものであったはずのそれらは容易に繋がってなどくれない。
見付からないアイデンティティ。
例えば……例えばそう、ここに林檎があるとしよう。これを二つに分けたとして、人はやはりそれを林檎と呼ぶだろう。皮をむき、一口大に切り分けて、あるいはウサギの形にしようと林檎は林檎。だが、すりおろせばどうだろう。パイ生地の上で焼いてしまえばどうだろう。食われてしまえば、どうだろう。咀嚼され、消化され、排泄され、分解されて、そうなればもはや林檎と呼ぶものはいないだろう。
個は、どこまでが個だろうか。家畜を二つに裂いて、二匹に増えたと宣うものはいない。一匹ですらもなくなるかもしれない。四肢の欠損であればどうだろう。失った脚をそれそのものの名で呼びはしないだろうけれど、三本の脚で体を支えて生きているならそれは、間違いなく同じ生き物だろう。
では、生まれる前に二つに裂かれた一卵性の双生児であればどうだろう。
個とは何だ。
アイデンティティの命題。“テセウスの船”、あるいは“お爺さんの古い斧”。
修理に修理を重ねて使い古した道具。思い入れも思い出もあろうそれ。けれど、消耗した部品を何度も何度も取り替えたつぎはぎだらけのそれは、一体いつまでがそれそのものだろうか。すべての部品が別のものへと置き換えられてまだ、それは同じものだろうか。
物に限った話ではない。生き物だってそうだ。細胞分裂と新陳代謝。すべての細胞は、自身を形作るすべての物質はやがて別のものへと変わってゆくのだ。それでもまだ、それは同じ生き物だろうか。
命の本質。魂の所在。俺は誰で、お前は誰だ。
問えど、嘆けど、叫べども、闇の中より答えが返ることはない。
あゝ無情と、ただ時間だけが過ぎてゆく――