□2017年 夏期
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【月が綺麗ですね】


 “I love you”――小説家・夏目漱石は英語教師であった時分、この一文を“我君を愛す”と訳した生徒に対し、日本人の感性と価値観に沿った意訳として“月が綺麗ですね”という訳文を示してみせたという。
 正式な記録は残っておらず、後世の人間による創作ともされる逸話であるが、現在でも文学的な告白の言葉として一部の好事家には親しまれているものである。
 更にはロシア文学の翻訳作家である二葉亭四迷による“死んでもいいわ”が、その返答として用いられることもあるそうだ。

 さて、ここに一つの問題がある。
 件の“月が綺麗ですね”の話はあくまで雑学の域を出ず、もちろん教科書になど載るはずもない。英語のテストでこう翻訳したとしてもマルが貰えるかは採点者の知識と遊び心次第であろう。
 これが愛の言葉たりえるのは双方の理解があってこそ。知らぬものにとっては単なるお月見の感想でしかないのだ。

 さて、ここに一つの問題がある。
 双方の理解とそう言ったが、ではこれが一方のみの理解であればどうだろうか。
 告白のつもりで言ったが月見の感想と取られてしまった、という場合はさして問題もない。人知れず独りで滑っただけでしかないのだから。
 だが、月見の感想のつもりで言ったはずが告白と取られてしまった、という場合は少々厄介なことになってしまう。尚且つその返答が是であれば少々どころの騒ぎではない。

 さて、ここに一つの問題がある。
 例え話のように話してきたこれらが例えでなく、今まさに起こっている現実の出来事であるということだ。

「ええ、死んでもいいわ」

 お月見の感想に対するそんな彼女の返答に、意味を考えてみることしばし。夏目漱石を思い出せたのはつい最近、当の彼女とその話をしたことがあったから。
 ボクは、これにどう応えるべきであろうか。

@『ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ』

 と正直に言って謝るべきだろうか。あるいは、

A『ははは、ありがとうハニー。嬉しいよ、結婚しよう』

 とこの据え膳をありがたくいただくべきだろうか。それとも、

B『おいおい、ただの月見の感想だろ。何を勘違いしてるんだい?』

 なんてのも……いやない。これはない。却下だ。なぜならボクは彼女が大好きだからだ。嫌われたくはない。……は! そうか、そうだった。ボクは彼女が大好きだった。大事なことなので二回言ったがもう一回言っておこう。大好きだ!
 そうだ、何の問題もないではないか。他は瑣末事でしかない。よしAだ、Aが正解だ。行っけー、ボク!

「ヒナ! ボクは……!」

 とまで言ったところでぴんと、デコピンが飛んでくる。

「あいたっ」
「もう……何を真剣に悩んでるのよ。こっちが照れるじゃない」
「え? あ……冗談?」
「当たり前でしょう。何だと思ったのよ」
「なんだ、そっか……真剣に将来を考えたのに」
「また馬鹿言って……」

 そう言って肩をすくめ、ヒナこと葵日向は溜息を吐き、隣の幼なじみをじっと見る。
 整った顔立ちに高身長、紳士的で優美な立ち振る舞い。クラスメートからは冗談半分に“王子”などと呼ばれているが、外見も中身もまさにお伽話から飛び出してきた王子様のよう。
 しかしながらこちらの住良木藍子さん、16歳。葵日向の幼なじみであり、同じ女子校に通う同級生。歴とした、女子である。

「ヒナならいいかなって」
「何がいいのよ……」

 ちなみに後日、一部始終を端から見ていた年下の友人の、真っ当な誤解を解くのに苦労することとなるのだが、それは余談である。


-終-



SS第66弾は【月が綺麗ですね】。
6年経ってようやく出てきたヒロインの友達。
 
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