□2015年 秋期
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【安楽椅子】


 肘架け椅子にゆったりと腰を沈め、男は静かに葉巻を燻らせる。
 その眉間に深々と刻まれたシワが、男の決して平坦ではない人生を如実に物語っていた。長身痩躯に仕立てのいいスーツを少し着崩して、何もないオフィスの天井を物憂げに見詰める。

 繁華街から外れた裏通りの雑居ビルに事務所を構えるその男は、私立探偵である。
 きっかけは小説の影響だったか。憧れだけで右も左もわからぬまま飛び込んで早十余年。ミステリーさながらの怪事件が舞い込むことなんてまずないけれど、それでも男は挫けることなくいまだ探偵稼業を続けていた。
 まだフィクションと現実の区別もつかないのかと口の悪い友人は言うが、そんなものはとうにわかっている。子供の頃にフィクションそのものな事件に巻き込まれたことも関係はない。
 浮気調査も迷子の猫探しも立派な探偵の仕事なのだ。困っている人の役に立てる。それだけで十分だった。

 ただ――今回に限っては少し事情が違っていた。

 男は険しい顔でデスクに置かれた一枚の写真へと視線を落とす。
 探偵冥利に尽きる複雑怪奇なミステリー、ではないけれど、奇妙奇天烈なファンタジーがそこにはあった。

 ミステリーの分野において“アームチェア・ディテクティブ”という言葉がある。現場へ赴いての情報収集を行わず、依頼人の話や資料といった表面的な情報を元に、頭の中で推理のみによって事件の全容を解き明かす、所謂、安楽椅子探偵である。

 男は肘掛けに手をついて、背もたれに体重を預ける。とても、とてもいい座り心地であった。
 開業して間もない頃に無理をして買った牛革のオフィスチェア。探偵ものといえば大概は行動型だが、男は安楽椅子探偵も大好きだった。形から入る。それがこの男の基本スタンスなのである。
 依頼の九分九厘が外を駆けずり回る仕事である為にどうにも活躍の機会が回って来なかったが、しかし今回はどうやら、今しばらくこの椅子の世話になれそうだった。

 写真には、奇妙な生き物が写し出されていた。
 およそこの世界の生き物とは思えぬその姿。勿論、UMAなんて探偵の領分ではない。ではないが、男の領分ではあった。
 正式な仕事の依頼でもなく、報酬もない単なるボランティアだったが、放っておくわけにもいかないと男は調査に乗り出すことにした。それが、今から1週間前の話。そしてそれがすべての間違いだった。

 写真を見据え、苦々しい顔で息を吐く。
 事態は火急であった。一刻も早くこの状況を打開しなければならない。男は焦る気持ちを抑えて思考を巡らせる。
 難解な謎に挑む名探偵、のような顔をしておいて特に推理と呼べる類のものではないのだが、別に事件という事件でもないのだが、そんなことはどうでもいい。奴を速やかに排除しなければ、この事務所の存続すらも危うくなってしまうだろう。
 男は深く意識の底を漁るように思案し、やがておもむろに立ち上がる。
 どうやらここまでのようだ。二つの意味でそう意を決し、男はソファに寝転がるそれへと言い放つ。

「よし、殴り合おうか」

 たった今思い付いた素晴らしい名案を提示するとしかし、それはすかさずびしりと、

「なんでやねん」

 と突っ込む。スルメをくわえながら読んでいた競馬新聞を机に放り出し、唇を尖らせて息を吐く。
 写真と寸分違わぬその姿。中年男性の頭部から手足が生えた、としか形容できないその珍生物は、やれやれと肩をすくめて首を振る。

「なんやなんや、どないした。疲れとんか? 悩みやったらおっちゃんに言うてみぃ」

 言われて男は眉間のシワをより深くする。悩みは貴様だと、迷い野良デジモンと思ってひとまず事務所で保護してやったらそのまま居着いてタダ飯を食らい続けている貴様だと、男はただ頭を抱える。

「どうもこうもない。負けたら出ていけと言っているんだ」
「いやいやいやいやいや。待ちぃな。待ちて。しばき倒して追い出すとかなんやそれ、悪魔かなんかか自分?」

 なら貴様は貧乏神か何かだと、男は苦悶の表情で言葉なく返す。
 男と珍生物はそのまましばらく無言で見詰め合い――やがて男は、大きな溜息を吐いて再び椅子に腰掛ける。座り心地だけは、とてもよかった。
 これは一体何だろうか。何かはさっぱりだが、男が理想とする探偵像から大分遠いことだけは確かである。
 男はただぽつりと零す。状況をこれ以上なく適切に言い表すような一言だった。嗚呼、

「悪夢だ……!」

 しかして男のナイトメアは、まだ始まったばかりであったという――


-終-



SS第20弾は【安楽椅子】。
いろいろ跨いでみた。
 
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