□2015年 夏期
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【陽炎】


 夏になると思い出すのは、いつもあの日の光景だった。

「誰ぞおったか」

 とんと、杖を突いて老年の男が問えば、路傍を見詰めていた少年は振り向いてゆっくりと首を振る。

「いえ」

 そう答え、また同じ場所へ一瞥だけをやると少年は――百鬼灯士郎は祖父と両親の後を追い、陽炎に揺れる緩やかな坂道を下ってゆく。辺りに人影はなかった。祖父は「そうか」とだけ返し、また歩き出す。
 8月半ば。暦の上では立秋を過ぎたとはいえ、日が肌を焼くように照り付ける炎天。蝉たちが忙しなく鳴いて飛び交う、そんな真夏の昼日中。向かうのは、墓所だった。

 献花を抱えて桶を持ち、灯士郎はふと空を見上げる。
 その日は、兄の命日だった。

「兄さん」

 墓前にそう呼び掛ける。
 灯士郎はずっと兄の顔を知らなかった。知ることができなかった。あの世界を、訪れるまでは。

 坂道を過ぎてふと振り返ると、陽炎の中に佇む人影が見えた。毎年決まってこの日、この場所に、彼は現れた。自分より少しだけ年上の、少年だった。
 あの子は誰、と祖父や両親に問おうにも、一度目を逸らせば彼は消えてしまった。
 君は誰、と少年自身に問おうにも、たった一歩近付くだけでも少年は消えてしまった。

 この世のものではないのだと、理解したのはいつのことだったろう。
 ただ、怖くはなかった。恨みつらみに迷い出た亡霊などではないとわかっていた。
 少年はいつも、優しく穏やかに、微笑んでいたのだから。

 けれど、今年は違っていた。
 陽炎の中にいたのは、自分自身だった。いや、自分自身だと、思い込んでいた騎士だった。
 漆黒の怪鳥を模った鎧を纏う、夕闇の騎士――ダスクモン。彼が誰であるかを理解したのは、少し前のことだった。

 そこに意志はあったろうか。
 少年がそうあることを選んだ時、やがて自分がそうなることなど知り得るはずもなかった。
 セフィロトモンの中にその記録が残されていたことも、それを仲間が見つけ出したことも、少年の与り知るところではないはずだ。
 それは偶然だったろうか。運命だったろうか。
 いや、どちらであろうと瑣事でしかないのかもしれない。

 坂の上の陽炎に佇む少年と、追憶の幻影に垣間見た少年と、自身の隣に立つその騎士とが重なった時、この胸に湧いた感情はただ喜びだった。
 疑問はなかった。わからないことだらけなのに、不思議と頭はすべてを受け入れた。むしろ、ずっとずっと解けないでいた疑問に、ようやく答えが示された気分だった。

「ありがとう」

 傍にいた祖父や両親にも聞こえないほどに小さく、灯士郎はそう零して瞼を閉じる。
 闇の中で誰かが微笑んだ気がした。

 もう、二度と迷うことはないだろう。惑うことはないだろう。
 不安はない。恐れはない。憂いはない。戦い続けよう。ダスクモン――貴方が役目を終えるその日まで、共に。

「灯士郎」

 帰り道に名を呼ばれて振り返る。少女が二人、少年が二人、見知った顔だった。献花であろう花束を抱えて、彼らは笑いかける。
 灯士郎は小さく頭を下げて、もう一度兄の墓前へと向かう。彼らが今ここにいる理由など、聞くまでもなかった。

「ありがとう」

 今度ははっきりと、大切な友人たちにその言葉を伝える。彼らは何も言わず、あるいはただ頷いて、あるいは灯士郎の肩を叩く。

 今年は随分と賑やかだ。
 満更でもない顔でそう笑う。そんな幻が、陽炎の中に見えた気がした。

 太陽の光が燦燦と降り注ぎ、空はどこまでも澄み渡る。そんな、ある夏の日のことだった――


-終-



第15弾は【陽炎】。
本編中では一切触れていない設定を掘り下げるという暴挙に出ました。
 
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