□2015年 夏期
5ページ/11ページ




【マリーの休日】


 マリア・アントーニアは1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンとオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンに生を受けた。
 三つ上の姉マリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹仲は非常に良好であったという。
 そんな彼女に転機が訪れるのは1763年のこと。フランスとの同盟関係を強固なものとするため、母マリア・テレジアはフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュストとの政略結婚を画策したのである。当時の王太子ルイ・フェルディナンの反対により交渉は難航するものの、紆余曲折を経て1770年5月16日、マリア・アントーニア14歳の時、王太子となったルイ・オーギュストとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて執り行われる。
 以降彼女は、フランス王太子妃“マリー・アントワネット”と呼ばれることとなる。

 こうして夫婦となった二人であったが、しかしその結婚生活は決して順風満帆と言えるものではなかった。
 趣味趣向、性格の不一致。あまり大きな声では言えない夜の問題もあり、夫婦仲は芳しくなかったと言われる。華やかな妻は地味な夫を見下してすらいたともいう。もっともそれは、周囲の貴族たちも同様だったようだが。
 しかし地味であろうと王太子は王太子。1774年、ルイ・オーギュストはフランス国王に即位し、マリー・アントワネットはフランス王妃となる。

 当時、王妃の評判は、端的に言えば非常に悪かった。
 本人はよかれと思って行った宮殿における数々の儀式・習慣の撤廃や緩和も貴族たちからは反感を買い、宮殿内ではある貴族との浮名が噂され、街中では彼女に対する誹謗中傷が飛び交った。
 マリー・アントワネットは宮殿内外で次々に味方を失っていったのだ。

 王妃は享楽的な浪費家だった。夜ごと仮面舞踏会で踊り明かし、賭博にのめり込んだ時期もあったそうだ。しかしそれは慣れない土地で暮らす寂しさや夫への不満、抑圧された生活に対する憂さ晴らしのようなものだったのだろう。そもそも王妃一人の浪費で一国の財政まで傾くわけもない。わけもないが、だが民衆はそうは思わなかった。
 1789年7月14日、王政に対する民の不満は爆発し、フランス革命が勃発する。

 何が悪いというなら、タイミングだったろうか。
 フランスは過渡期であった。歴史に“もしも”はないが、マリー・アントワネットが王妃でなくとも革命は起こっていたであろう。財政など、前王の時代からとうに傾いていたのだから。
 1792年、革命戦争が勃発すると国王一家は捕えられ、パリの修道院・タンプル塔に幽閉される。
 翌年、名ばかりの裁判であらぬ罪まで被せられ、歴史に翻弄された悲運の王妃マリー・アントワネットは斬首刑に処されることとなる。
 1793年10月16日、享年37歳であった。

「え? 処刑されたの!?」

 そこまで聞いて、今の今まで机に突っ伏していた少女・マリーはびっくらこいたと目を見開く。

「そこから?」

 と思わず声を揃えたのは机の向かい側に立つ少年・アユムと、少し離れた席に腰掛ける少女・ヒナタ。アユムが肩をすくめ、ヒナタが小さく息を吐く。

「そうなんだー。なんか可哀相」
「そうね。名誉の回復は勿論、ちゃんと埋葬されるのにも随分と時間が掛かったらしいわ」
「へぇー、そっかぁ。うーん、勉強になったなー」

 と言って息を吐けばアユム先生は満足げに頷く。ヒナタ副担任も優しく微笑んでいた。アユムは続ける。

「そうか、それはなによりだ。ではその辺りも含めて次はフランス革命を詳しく学んでいくとしようか」
「えええ!? 終わりじゃないの!?」
「馬鹿を言うな。チャイムにはまだ早いぞ」
「うへぇ〜……」

 もう駄目ばいとばかりにマリーは再び机の上に倒れ込む。
 何がどうしてこうなったというなら特に深く考えもせず“マリー・アントワネットみたいな優雅な休日を過ごしたいな”などと言ったしまったからだろう。
 どうやら勉強できる組の妙なスイッチを押してしまったらしい。
 戦いに備えて鋭気を養うはずの休日がまさか歴史の授業になってしまうだなんて。養えてないのだけれども!

 無駄に品揃えのいいエルドラディモンのお城の図書館からふと窓の外へと目をやれば、淡いオレンジ色の空が見えた。
 嗚呼、ぐっばいあたしの休日――


-終-



第11弾は募集お題【マリーの休日】です。
そう、結局またいつものマリーさ!
前半長くなりすぎて数キャラ泣く泣くカットしました。
 
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ