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下弦の月[4]


那月が砂月のアパートに遊びに来る頻度は、格段に減った。
メールはもはや日課なのか、日を空けずに送ってくれるが、徐々に業務連絡と化してきた。
中身のない内容でも、不満に思ってはいけない。那月だって忙しいのだ。
孤独には慣れているし、いい加減、食うに困らず生きているだけで良しとできる、そんな大人になりたい。

バイト先も含め、砂月は新しい環境に馴染めてなかった。
退学歴もあるからか、自分に注がれる視線は、決して穏やかなものではない。
それは昔からだし、今更どうの、とは言わないが、那月の近況を聞けば聞くほど、惨めな気持ちになってくる。
那月が楽しそうにしているのが、気に食わないとか、そういうつもりはないのに。

最近、夢を見るようになった。

闇が、とめどなく広がっている場所に、砂月は膝をついている。
自分のすぐ隣に、仮面をかぶった男がいる。それも、鬼の仮面。
顔が鬼、という以外は、砂月と全く同じ容姿をしている。

砂月と彼は、少し先にいる、那月を眺めている。
那月を指さして、彼は砂月に、こう言うのだ。


『あいつが邪魔だとは思わないか?』


悪魔のささやきだった。
那月が邪魔?そんなこと。「そんなことは…」と、砂月は首を横にふる。
すると、鬼の男は笑うのだ。


『でも那月がいるせいで、お前はこんなに不幸になっている。それは事実じゃないか』


俺はこんな場所でひとりぼっちなのに、向こうにいる那月は、いつのまに沢山の仲間に囲まれて、
隣には、あの春歌とかいう女がいて、楽しそうに話している。
自分があの中に入れたら…そう思うことはあっても、那月が邪魔だなんて思ったことは…。

『素直になれよ、砂月。那月を弁護したって、お前には何のメリットもないんだぜ』
「メリットなんて考えてないっ」

那月と砂月。ふたりでひとつ。お互いがお互いを守るために、そこには計算なんてない。


『嘘だな。那月はずるい。お前が思っているほど、清廉潔白な男じゃない。ふたりはひとつ、だと言っておきながら、
オイシイところは全部、あいつが持って行っちまうじゃないか。結局、お前を利用するだけ利用して、
最後は知らん顔をして、お前を捨てるさ』


違う、と砂月は拳を握り締め、頭をふる。だがそれも、どんどん弱々しいものになっていく。


『那月ほど恐ろしい男はいない。人畜無害なふりをして、自分だけはお前の味方、てフリをして…
お前が邪魔になったら、かならずあの手この手を使って、お前を追い詰めてくる』
「っ…那月はそんなこと、出来るやつじゃ」
『那月に殺されるよ、お前』


おぞましい言葉が、砂月の鼓膜を突き破る。


『でも大丈夫だ。お前には、俺がついている。那月に騙されそうになったら、またこうして、
目を覚まさせてやる。いいな、那月はお前の敵だ。味方は俺。お前の心、だけ。忘れるんじゃないぞ』


意識が引き上げられていく。
激しく酸素を吸って、吐いたあと、そこは白い天井だった。

「那月は、おれの…敵……」

口唇が、短い言葉をなぞっていた。




「あー!またズレたっ。那月、お前さー…すこしは人に合わせる気ねえのかよ」
「あ、ごめんなさい…思うままに奏でていたら、いつのまにかBメロを歌ってましたあ」
「歌ってましたあ、じゃねえよっ。もう何テイクめだコレ」

今日は那月と、寮で那月と同室の来栖翔が、レコーディングルームに缶詰状態だ。
来栖翔は性格も含め、那月と対角の部分が多い。
マイペースでのびのびした那月に、イラっとさせられて怒鳴りつけることは日常茶飯事だが、
那月に対して、悪い感情を抱いているわけではない。

「ごめんね、翔ちゃん。今度はちゃんとやるから…」
「う…何だよその捨て犬のような目は……っ…わ、わかればそれでいい…」

那月のような人間に、世話を焼きたくなる性分らしく、那月に対しての叱咤には、どこか愛情がある。
そして、謝られると弱い。兄気質なところが災いして、結局は甘くなってしまう。
那月もそんな翔は、心を開ける数少ない友人の一人だ。

学園長のシャイニング早乙女が、突然の気まぐれで、二人にデュエットの課題を出した時も、那月は嬉しそうで、
翔もいやいや言いつつ、最後は笑っていた。
声質もこだわる部分も全然違うが、ふとした時に、似たような癖が生じる。
練習を見学していた春歌は、それを活かせばいい、とアドバイスした。

「ハルちゃん、ごめんね。ずっと付き合わせちゃって…」

レコーディングテストが終わるまで、パートナーとの共同作業は暫くお休みだ。
だが、個人作業は進めておかなければならない。那月と春歌の曲は、まだ完成には程遠い。

「わたし、曲の構成、練り直してきます。まだ納得できない部分も多いし」
「そうですか。僕もテストに合格したら、すぐに取りかかるね。本当にごめんね」

那月と別れ、寮に戻る。
寮で同室の渋谷友千香が、春歌の帰りを嬉々として迎え入れ、ハーブティを入れてくれた。
友近のおかげで孤独感はないが、那月とはふだん近すぎて、少しでも離れていると、自然と肌寂しくなってしまう。
彼の愛情は深い。
深すぎる反面、彼がいない時のなんとも言えない喪失感も、それに比例する。

(ダメだ…なにも思い浮かばない)

友千香が眠ったあとも、春歌は譜面と睨めっこしていた。
まさに袋小路。自分の才能に限界を感じて、存在自体を捨て去りたくなる失望感。
生まれない。何も生まれない。
こんな時那月がいれば、どれほど心救われるだろう。

気分転換が必要だ。
徐々に、こういう行き詰まりへの対策も身についてきた。
友近を起こさないように、足取りに気を配り、部屋を出る。

星空を見るといい。

那月がそんなことを言っていた。無限に広がる世界を、眺めてみるといい。
大きな羽をつけて飛んでいけそうな解放感。

寮の外に出ると、わずかに肌寒い風と、自分をまるごと飲み込んでしまいそうな、広大な夜空。

抱かれてごらん。
星空にむかって、両手を広げて、目をとじて、抱かれてごらん。

那月の過去の声が、あたまの中で音となって、音楽となって、春歌を包みこむ。
オリオン。アンドロメダ。サザンクロス。
浮かんだメロディを、自然と口ずさんでしまう。春歌は今、宇宙を歩いている。

瞼をあげる。そこには、遠くなった星空。
春歌は譜面を広げ、音符を書き込んでいく。

この間考えてきたサビにこれを加えれば、もっとダイナミックな曲になる。
来る日、ステージで那月が、大観衆を前にして歌いあげる姿を想像しながら、さらに音符を散らばせる。
穏やかに、もっと激しく、切なく、儚く、優しく、強く。
那月の色んな顔を、ひとつもこぼしてはならない。

「那月くん…」

あの一等星のように、春歌の胸のなかで、彼は輝いている。




数日後、那月が砂月のアパートに来た。
顔を合わせると、そこにはいつもと変わらない那月がいる。
以前より痩せていて顔色が悪い、という変化はあるが。
相変わらずの無邪気な笑顔で、砂月との再会を心待ちにしていたかのように、玄関で靴を脱ぐなり飛びついてきた。


「さっちゃん、ごめんね。なかなか来れなくて…元気だった?お仕事はどう?」


今の那月から、邪気なんてこれっぽっちも感じられない。
彼が砂月を陥れようとか、利用しようとか考えている男には、到底思えない。
思いたくないのに。ああ、疑うのは夢のせいだ。気にしすぎだ。

「ぼちぼちさ…そっちは?」

平常を装い、返すのは愛想笑い。
なんで心から笑えないんだ。那月は何も悪くない。
こんなに疲れているのに、わざわざ来てくれたんだ。感謝すべきだ。

「ちゃんと寝てるのか?那月、目の下にクマがあるぞ」
「ええ…ここのところ、ずっと課題に追われていて…昨日やっと合格したんだよ。あ、この間言ったと思うけど、
同室の翔ちゃん。彼とデュエットしたんだ」
「ああ、あのチビで可愛いとか言ってたヤツか」

那月の口から、友人の名前はいくつも挙がっていたが、特に多いのが、翔、とかいう男。
小さい。可愛い。王子様。
どういう基準で兄が翔を気に入っているのかは、正直理解できない部分もあるが、おそらく、悪い人間ではない。

「掛け合いって、すごく楽しいね。今まで歌や演奏はひとりで披露することが多かったけど、
全く毛色の違う音同士がぶつかったり、時には波長が合って、同じ曲でも、ひとりで歌うよりも味が出る。
音楽って、すごいよね」

兄が心底、音楽に対して熱心なのが伺える。自分ももし、今音楽を続けていたらきっと。

「そうそう、翔ちゃんはヴァイオリンも弾けるんだ。でも弾いてるところ、見せてくれなくて」
「ヴァイオリン?」

胸の内部が、何かで啄かれた。

「デュエットもまたやってみたいけど、翔ちゃんとアンサンブルもいいなあ」
「………」
「それに真人くんのピアノと、音也くんのギターを加えたら…うん、何だかすごいバンドになっちゃう気がする」

那月の目は輝いていた。
音楽を極めるために、いつかの頂点だけを見て、ひらすら追いかけている。
その未来に、砂月の居場所は、きっとない。

「昔同じコンクールに出てたみたいなんだけど…覚えてないなあ。さっちゃん、翔ちゃんぽい子って、見てないよね?」
「………」
「さっちゃん?」
「え?」

はっとなって顔をあげる。那月が心配そうに、顔を覗き込んでくる。

「あ…悪い。ちょっとぼうっとしてた」
「大丈夫?顔色がよくないみたいだけど…ちゃんと食べてる?さっちゃんこそ、疲れてるんじゃ…」

那月の掌が砂月の頭の上にのる。よしよし、と撫でられた。

「……っ」

こんなふうに、頭を撫でてくれるのは、那月だけだった。
この世でたったひとりの兄だけ。

いやだ。本当は情なんて込められてない手のひらなんだろう?
こんなことされるだけで泣きたくなる自分を、殺したい。

どっちだろう。
自分の中の悪魔と、那月への絶対の信頼。どちらに心を委ねればいい。


『那月はお前の敵だ』


まただ。脳内を食いつぶしてくる真っ黒い囁き。
自分はいつのまにかボロボロで、こんな誘惑にすら縋り付きそうになる。

「さっちゃん?」
「いや…なんでも、ない」

一人になりたい。いや、この兄と、那月と一緒にいたくない。
那月自身が白でも黒でも関係なく、お前の存在が、俺をおかしくするんだ。
葛藤がやがて目眩を呼び、砂月は額を抑える。

「さっちゃん、本当に具合悪そう…顔、真っ青だよ。医者を呼んだほうがいいかもしれない」

那月がブレていく。
自分を気にかけてくれているはずの顔が、どういうわけか、笑っているように見える。


「ねえ、さっちゃん…そんなに辛いなら」

早く死ねば?


そう呟いた那月の両腕が、砂月の身体を包囲していた。
この大きな腕に捕まれば、自分は。

そう思ったら背筋が凍った。



「触るな!!!」



那月は敵。
その声が砂月の脳を支配し、気づけば、那月を突き飛ばしていた。
那月の体は壁にぶち当たり、その衝撃に呻いた。
あ、と事の大きさを理解する砂月は呆然とし、那月はそんな砂月に対して、唯唯、当惑の眼差しを向けていた。


「さ……ちゃん……どう、したの……?」


驚愕と、悲痛の入り混じった面持ち。弟の様子が尋常でない、と。
こんな顔をしているのに、あんな言葉、吐くはずがない。ないのに。


「…頼む」
「え?」
「今日はもう、帰ってくれ…」


このままだと、本当に那月と真っ向から対立しなければならなくなる。
その懸念はもう、あと一歩のところで。


「ごめん……僕が来るの、困ってたんだね……気づかなくて、ごめん…」
「………」


那月はそれから何も言わず、荷物を肩にかけて、アパートを出て行った。
扉が閉まる音に、心が悲鳴をあげる。兄が姿を消すまで、目を背けていた。

那月を拒絶してしまった。あの繊細な兄を。
身体中が千切れそうな罪悪感と、しばらく闘った。
おさまれ。おさまれ。
たった数分の苦しみが、あまりに長く感じられた。息を、深くつく。


『油断するな』


また、声。
否、ここは闇のなかだ。


『お前に拒絶されたとわかれば、那月は本格的にお前を排除しにかかるだろう。お前から何もかも奪い、
お前を追い詰める』
「……何度も言っている。那月にそんなことはできない」
『どうかな。那月には女がいる』


砂月は息を詰める。思い当たる節。

『お前も察しただろう。那月は七海春歌とかいう女を愛していて、弟のお前にとられたくない、と思っている』
「………」

あのときの電話を思い出した。那月の声音が、一瞬、冷たいものに変わったのだ。

『ただでさえ、お荷物なお前を排除するのに、十分すぎる動機じゃないか』
「……それでも」

兄は、そんな人じゃない。昔から、憎しみとか、そういう感情とは無縁の人で。
汚いのは自分で、那月は…


『いつまでそんなことを信じている。那月は変わったんだ。心もカラダも、大人の醜さに汚されて』
「」
『いい加減、現実を見たらどうだ』


昔の君は、もうそこにいない。

「そうだよ。いい加減、気づいてよ」

自分の知らない兄が、そこに立っている。

「那月…俺は」
「僕はこれまで、どれだけ君のために傷ついたかな。那月を貸したせいで、どれだけ…」

温度をまるで感じられない炎を瞳に宿し、兄は近づいてくる。
崩れている砂月の前で膝をつくと、ぐっと、砂月の顎を持ち上げる。

「兄さ、ん…」

絶望の淵にある一寸の光にすがる思いで、那月を見上げる。
那月は一瞬やさしく微笑んだかと思うと、砂月の唇に、キスをしてきた。

背筋が凍りつく。その、情のなさに。



「お前は生まれるべきじゃなかったんだ、砂月」



俺は那月にとって、邪魔以外の、何者でもなかった。
透明なままの硝子は、すべて砕かれた。破片がそこら中に散らばる。
涙すら、流れない。


『生まれるべきじゃなかったのは、那月のほうだ』


あの声。
そこには既に兄の姿はなく、鬼の仮面を被ったあの男が、立っていた。

悪夢は、ここで覚める。
LEDが酷く眩しい天井。背中を強ばらせる床。

それは覚めない夢の続きだったのかもしれない。


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