Stories

□NOMAD SOUL
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昨日までは頭なんか使わず無意識にすいすい自転車に乗れていたのに、今朝起きたら、自転車の乗りかたについての記憶が心身ともに欠落してしまっていた。



たとえて言うならそんな気持ちだった。




成人してから幾星霜。
ふいに、絶望的なむなしさにおそわれた。
これからどうすべきなのか、どうしたらいいのか、わからなくなって、途方に暮れた。



しかしそういう気持ちを他人にぶつける事は出来ない。
それがわかる程度には大人だった。






答えはきっと、自分のなかにしかない。






今までわたしは自身を無視することに長けていた。

しがらみに洗脳されて、自分の望みとはちがう方向へ歩を進めてきた。

心の声に耳を塞いだまま、引き返せなくなるほど遠くまで歩いてきた。






気づいた時、わたしは自分自身にすら見棄てられていた。
己の心が語る声に耳を傾けようとしても、今さら何も聴こえはしない。







…ある日。
明け方の眠りの中、夢を見た。



わたしは生成りの衣と、皮のサンダルを身につけ、背の低い草が生えた荒れ地に立っていた。



☆………★………☆


それは、前世の記憶。



7世紀ごろ。
黒海に近い地域で暮らす、遊牧民の女性だった。


中肉中背。茶色いゆるい巻き毛。
それ以上の容貌は、最後までわからなかった。





意識は、自分の結婚式のシーンへと導かれる。




白い布のベールを被っている。
ベールには銀色のコイン状の飾りが、たくさん縫いとめられている。
動けばシャラシャラと儚い音をたてた。


宴会の席。
隣に座る人をこっそりと見上げる。
上背があり、細身だ。

こちらを見て、微笑んでくれる。
茶色い髪に茶色い瞳…優しそうな、綺麗な顔をしていた。



今でいうところの見合い結婚に近かったような気がする。
だけど、夫は終生わたしを大切にしてくれた。
熱さのない穏やかな関係だったけど、それでも子供は多く作ったようだった。





一粒ずつお数珠をたぐるように、少しずつ、遠い記憶が引き出されてゆく…




集団で、移動しながら生活している。

暖かい季節は家畜を引き連れて草原で暮らし、それ以外の季節は石造りの街のような場所で暮らした。



特に草原では星空の様子をよく観察し、生活の指針としていた。


閉鎖的な種族ではなかったようで、さまざまな種族とフランクに接し、盛んに交易していた。


わたしは、海のほうから交易にやってくる民族に興味を持っていた。
彼らの陽気さや、破天荒なくらいの自由さに憧れていた。強烈に。





☆………★………☆






その人生でいちばん辛かった場面を思い出す。





わたしは何カ月も、石造りの住居の一室にひきこもっている。

自分の子のめんどうもロクに見ず、他の家族に任せたまま。


優しい夫は心から心配してくれている。



それがわかっているのに、わたしは彼にすら本心を打ち明けず、誰とも口をきかず、部屋にこもっていた。



己が属している民族の戒律に、心から嫌気がさしていた。


その戒律は絶対的で、完全に従わなくてはならないものだった。
従わなければ誰であろうと、例外なく命を奪われた。


処刑は半身を土に埋めた状態で、石を投げつけられるものだった。
皆で参加して、石を投げつけて殺すのだ。
それが好きな人間、親しみを感じて交流していた人間であろうとも。
個人として何の恨みがなくとも。




時折繰り返されるそれは、
どれ程、わたしの心を殺しただろう。



本当に嫌だった。

誰かを石打つことは、己の心をそうすることに他ならなかった。


☆………★………☆




わたしは多くの子や孫に囲まれて死んだ。

決して孤独な生涯ではなかった。






それなのに、死んだ時はとても嬉しかった。
ようやく本当の自由になれると。
ようやく、あの海の民のように、自由になったのだと。







どこにいようと、どんな姿をしていようと、当たり前のように、わたしはわたしだった。


遊牧民の暮らしをしながら、強烈に自由を求めていた。

こんなわたしを愛してくれた夫も、子供も目に入らないくらいに。





わたしは、いつも心がこの場所にいない。
いつもどこか違う場所へ帰りたがる。


何度生まれ変われば学べるのだろうか。



今 目の前にあるものを慈しまなければ、後から後悔ばかりするのに。








☆………★………☆




これが、わたしの語るわたし自身。





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