novel
□何気ない朝のある日
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俺の朝はいつも、遠慮がちに体を揺さぶられて始まる。
「ジャンさん……起きてください、ジャンさん」
「んー……」
か細い声に覚醒を促され、俺は瞼を開けた。
「あ……」
「おはよ、ジュリオ」
「おはよう、ございます」
まだぼんやり霧がかかったような視界いっぱいに広がるジュリオに笑いかける。すると、彼は俺の何倍も嬉しそうな笑顔を浮かべて頷いた。
頭に犬の耳の幻覚が見えそうだ。
何がそんなに興味深いのか。俺の顔を見つめたまま離れようとしないジュリオの胸を軽く押す。身を引いたのを確認して、上体を起こした。
思い切り、伸びをする。
あー気持ち良い。
ジュリオがカーテンを開けてくれたらしく、室内には燦々と眩しい太陽の光が差し込んでいた。今日はどうやら晴天らしい。
「悪いな、いつも起こさせちまって」
「いえ、嬉しいです……」
「そうか?」
ベッドから出て、さっさと服を脱いで着替える。
俺は身嗜みなんて気にする方じゃないから、かける時間は短い。
変な格好してたら、後からルキーノが直してくれるしな。
「じゃ、行くか。ジュリオ、先に下行ってていいぜ」
「はい……」
俺は自室のドアを開けて、すぐ向かいにある扉のドアノブを握る。この部屋に入れるのは俺だけだから、俺の後について部屋を出てきたジュリオには下に行くよう促した。
これも毎朝の恒例行事なんだが、ジュリオは毎日これを言わないと俺が出てくるまで廊下で待ってるんだ。
全く、愛されてるのね、俺って。
ジュリオが階段を下りていくのを眺めてから、俺はドアノブを捻った。遠慮なく中に入る。
「イヴァン、起きろー」
「……」
呼びかけながら、ベッドまでズカズカと歩み寄る。
布団の膨らみはピクリとも動かない。
「仕方ねぇな……。イヴァン、起きろって、ばっ!」
「っ、何すんだてめぇ!!?」
思い切り腹に肘を落とそうとしたら、不穏な気配を察知したのか直前でイヴァンは目を覚ました。
布団を跳ね飛ばして起きあがり、目を見開いている。
「おはよー、イヴァン」
「おはよーじゃねぇだろ! クソ! 何すんだ! 俺を殺す気か!」
「ちゃんと直前で止めただろ」
「俺が起きなかったら、そのまま叩き込むつもりだったんだろうが!!」
「あら、ばれた?」
「てめぇええええ!! クソ、クソ、クソ!!」
「朝から汚い言葉ばっか吐くなって。……キレイな俺の耳が汚れちゃう」
「ファーック!!!」
「おーい、おまえらいつまでじゃれてんだ! さっさと降りてこい!」
俺がイヴァンをからかって遊んでいたら、開け放していた扉の向こう、階下からルキーノの声がした。
どうやら俺たちの声も下まで響いていたらしい。
「イヴァン、先行くぜ」
「おう」
まだ少し不機嫌そうに眉根を寄せて、バサリとタンクトップを脱ぎだしたイヴァンを残して、俺は1階のリビングへと向かった。
「おはよ。ベルナルド、ルキーノ」
「おはよう、ジャン」
「おはよう。こら、ジャン! おまえはまたそんなだらしない格好で……!」
朝刊片手にコーヒーを飲んでいるベルナルドと、既に出掛ける用意を完璧に済ませているルキーノに挨拶する。
ベルナルドは穏やかに答えて笑い返してくれた。ルキーノはすぐに怒って俺に歩み寄ると、弛んだネクタイに手を掛け−−締める前に眉間の皺を深くする。
「おまえ……汗臭いぞ。昨日、また面倒くさがって風呂入らなかったな。シャワー浴びてこい」
「えー、折角着替えたのに」
「昨日入らなかったお前が悪い」
「ちぇー」
唇を尖らせても、ルキーノの顔は険しいままだ。人よりも大きな図体が朝食の置かれたテーブルまでの道を塞いでいる。
俺には素直にシャワーを浴びてくるしか選択肢はない。
「分かったよ。……ジュリオ、先に食べてていいからな!」
「はい、ジャンさん」
ルキーノの向こう、席についておあずけされた犬のように朝食を食べずにいるだろうジュリオに声を掛ける。
そうしないと、彼は俺が食べ始めるまで食事をしない。
「俺はもう行くからな。今日は自分でネクタイ結べよ」
「え、早いな?」
「取引先と朝イチで会議がある」
「……お疲れサン」
営業って大変だな。
俺は行ってらっしゃいと告げて、リビングから洗面所へと移動する。途中、無言でイヴァンとすれ違った。
「おはよう、イヴァン」
「……はよ」
「おまえも臭いな! 全くどいつもこいつも……! 風呂入ってこい!!」
「はぁ!? いきなり何言ってんだ、クソ! いいだろ、別に! 1日くらい風呂に入らなくても死にゃあしねーよ!!」
「死ななくても汚いし、臭いんだよ!」
「イヴァン、幹部が不潔だと会社のイメージが悪くなる。今はジャンが入ってるから、先に朝食を食べて、後でシャワーを浴びておいで」
「っ、クソ!」
背後が実に賑やかだ。
イヴァン、先に飯食えるなんていいなぁ。
クソ、腹減った……。
昔から風呂は好きじゃない。
空腹を訴えている腹に早く物を詰め込みたいのもあって、俺は急いでシャワーを浴び、拭くのもそこそこに洗面所を出た。
タオルを体に巻き付けただけで一端部屋に戻り、下着と服を身につけて、リビングへ。
既にルキーノの姿はない。
「イヴァン、入っていいぞ」
「おせーんだよ、クソ!」
こいつは語尾にクソをつけないと、喋れないんだろうか……。
ガタンと荒々しく席を立ち、イヴァンが足早に洗面所に向かっていく。
「あいつ、早死にしそー……」
いつか頭の血管が破裂しそうだ。
「ジャン、さん……」
「おう、ジュリオ。待たせたな」
ジュリオの向かいの席、ベルナルドの隣に腰を下ろしてすぐ、俺はパンを口に入れた。
ガツガツと朝食を勢いよくたいらげていく。
「ジャン、行儀が悪いぞ」
「ぶぁって」
「口に物を入れたまま話すな。……全く」
注意しながらベルナルドが苦笑する。
そんなにおかしな顔をしてただろうか。
「だって、腹減ってんだもん。それに、シャワー浴びたから余裕ないしさ」
「ジャンさん。髪が……」
既に食べ終わっていたジュリオがそう言って席を立ち、俺の後ろに回った。首に掛けていたタオルを取って、まだ濡れている髪の毛を丁寧に拭いてくれる。
「あ、悪い、ジュリオ」
「こら、ちゃんと乾かしてこいよ、ジャン。ジュリオも、あまり甘やかすな」
「俺が、好きでしてること、だから……」
「ありがとな。食べ終わったら歯磨きついでにドライヤーかけてくるよ」
ジュリオの言葉に、俺は苦笑してそう答えた。
いくら本人が好んでしているといっても、何でもかんでもさせるのは悪い。
もっと触っていたいんだろう。背後から残念そうな雰囲気が伝わってくるが、俺は気付かない振りで朝食を食べる。
ジュリオは1歳下の弟だ。
なのに、何故だか俺を異様に尊敬していて、兄弟の中で俺だけ「さん」付け。敬語を使う。
兄弟なんだから、そんなに畏まらなくてもいいのに、いくら言っても昔からこれだけは直らない。
朝食を粗方食べ終わった所で、俺は再び口を開く。
「2人共、今日の予定はどうなってるんだ?」
「俺は普段通り。机にへばりついて難しい書類と睨めっこさ」
「俺も……いつも通り、です。ジャンさんと、一緒に出勤できます」
嬉しそうにジュリオが言う。
「じゃあ、今日は3人で出勤するか」
「イヴァンはどうする?」
「あいつも、予定が合えば一緒に。仲間外れにすると怒るからなぁ」
「誰が仲間外れだって?」
そこで、タイミング良くイヴァンがリビングに入ってきた。俺と違って、髪もきちんと乾かしている。
まだ眉を顰めてはいるが、シャワーを浴びて頭が冷えたのか、機嫌は少し良くなったようだ。
「イヴァン、早かったな」
「今日、特に早く行く予定ないんだったら、一緒に出勤しようぜ」
「あぁ? なんで俺がお前達と……」
「行きたくないのけ?」
「……んなこと、言ってねぇだろーがよ」
「よし、決まり!」
「じゃあ、さっさと用意しやがれ。お前が1番遅れてんぞ」
「おぉ、わりぃ! すぐ髪乾かしてくっから。拭いてくれてありがとな、ジュリオ」
「俺も、歯磨き、行きます……」
俺は慌てて席を立つ。
イヴァンもベルナルドも既に用意は済んでいる。ジュリオもあと歯磨きだけだ。
ベルナルドの部下が車で迎えに来るのはもうすぐ。
俺はジュリオと一緒に、急いで洗面所へと向かった。
END
09/09/01