めいん2
□眠れぬ夜に
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仕事で疲れた夜には必ず
訪れる訪問客。
「こんばんは」
『こんばんは』
窓からいつものように侵入してくるのは黒髪を後ろにしっかりと束ねた彼。
うみのイルカ。
彼はとても不思議な人で、ある日ベランダで倒れてたのを助けてあげたら、たまに来るようになった。
必ず何か手土産を持って。
まるで「ごんぎつね」だ。とある日思ったっけ。
でもなぜか、玄関じゃなくてベランダからなんだよね。
「今日はおでんを作ってきました」
『いいですね、寒くなってきたし』
私もなぜか彼ののほほんとした雰囲気に流され、受け入れてしまっている。
土鍋を手にした彼はベランダに靴を脱ぎ部屋に入った。私は食卓に鍋敷きをセットしてこちらへどうぞと椅子を勧める。
たまに訪れる、不思議な夜。
毎次、二人で静かな晩餐が繰り広げられる。
この空間が随分と浮世離れしていて、朝になると夢だったんじゃないかっていつも思ってしまう。
「あ、アキノさん、からしあります?」
『味噌ダレとからし、あとは』
取りあえずその二つを冷蔵庫から取り出す、今日は奮発して取って置きのお酒も開けちゃおうか。何品か適当にテーブルに並べたら二人で食卓に着いて、乾杯をする。
おいしい、声が揃って笑いがこぼれた。
イルカさんの笑顔を見てるととても癒される。日々の疲れが吹き飛んでしまう。
『この大根、味染みてて凄くおいしい』
「一晩かけましたから」
褒められて嬉しそうにしてる。
あーこんな人が旦那だったら、そんな事を思いながらお酒を飲み干した。
ふと彼の顔を見たら涙目になっている。
「・・・からしが鼻に来ました」
『漫画みたい』
鼻の傷跡辺りを押さえながら、ヒー、と辛そうにしてるイルカさん。かわいい人だなあ。
『鼻から吸って口から吐くといいですよ』
「ええと、ハースーハースー」
それ逆ですイルカさん。
咳き込んだ彼の背を撫でながら、思わず笑ってしまった。
『はー、お腹いっぱいです』
「飲みすぎちゃいましたね」
おでんが美味しいのもあって、二人でかなりの量を飲んでしまった。ご馳走様でした、と私が言うとイルカさんはにっこりと笑って、お粗末様でしたと立ち上がった。
『あ、鍋置いておいてください、私が片付けますから』
今度来た時に持って帰ってくれれば。と声を掛けて土鍋を手にしたイルカさんを止めると、近くにあった彼の顔が少し赤くなった。
お酒のせい、かな。
「アキノさん、また、来てもいいですか?」
『何言ってるんですか、今更』
いつでも待ってますよ、と言うと今度はまっかっかになった。秋に色付く紅葉みたいに。
『あー、でも・・・』
「えっ」
今度は慌ててる。
忙しい人だなあ。
『次は、玄関から入ってきてくださいね』
「・・・はい」
赤い顔でふんわり笑った、イルカさんの笑顔は本当に癒される。どこかからマイナスイオンが出てるんじゃないだろうか。
服の袖を、思わず引っ張るとイルカさんは固まってしまった。
「・・・今日はもう帰ります」
『あ、はい』
ベランダに向かったイルカさんの後に続く。カラカラと窓が開かれて、外のひんやりとした空気が部屋に入ってきた。イルカさんが靴を履き終えるのを後ろからじっと見つめる。大きな背中だな。
抱き付いたら、どんな顔するのかな。そんな事考えていたら、彼が立ち上がって振り向いた。
「それじゃあアキノさん、おやすみなさい」
『おやすみなさい、また来て下さいね』
私が笑い掛けると、彼は一瞬、驚いた表情を見せてから、気まずそうに下を向いた。
どうしたのだろう、とその顔を覗き込もうとしたら、徐に腕をグイ、と引かれた。
ふわ、とお酒のニオイが鼻を掠める。
頬にあたたい感触が優しく触れて、離れていった。
「・・・すみません」
彼はそれだけ言うと、姿を消してしまった。
何が起こったのか理解するまで、随分時間が掛かってしまった。
(顔、熱いな・・・)
火照った頬を、手の甲を当てて誤魔化す。
胸にじんわりと広がる喜びに、戸惑ってしまった。
とんだ「ごんぎつね」だ。
口元が緩んでしまう。
ベランダに出て外を眺めた。灯った熱を冷ますように、夜風に体を預ける。
『次は、いつ来てくれるかな』
無用心だけど、私はいつもベランダの鍵は開けておく。
いつでもイルカさんが訪問できるように。
でも今度からは鍵をしておこうか。
ちゃんと玄関から、あの人を迎えたいから。
『でもまたベランダから来そうだな』
想像して笑ってしまう。
足早に家路に着くイルカの
嬉しそうな小さな叫びが夜空に響き渡った。
―眠れぬ夜にこんばんは―
(いつか狼になってしまいそう)
end.