おはなし
□闇夜の灯
3ページ/6ページ
――涙と共にパンを食べたものでなければ人生の味は分からない。
電子天秤の上に薬を乗せて、重さを量る。
すると目分量にも関わらず、ぴたり。はかりの数値は、わずかな誤差も無く思い通りの数字で表示される。
粉末である薬物。これを手早く正確に量れるという事は、仕事が速いという事を意味する。
薬物売人。三ヶ月前に幻覚を見て以来、友香は薬から足を洗ったが、だからといってお金が空から降ってくる訳はない。
生きるためには、働かなければならない。友香が薬を量っていると、携帯電話が鳴り響いた。時計の針は、十九時を指していた。
「シュンじゃん。どうしたの?」
友香ははじめ、ストーカー行為と暴行未遂を犯したシュンを、許す気にはなれなかった。
しかし、シュンが友香に必死に謝り続け、お詫びに売人の仕事を紹介すると言ったため、渋々友香は折れてやる事にした。
『友香、先月の売り上げ、俺を抜いて上位だったらしいじゃん。もしかして、客と寝てるの?』
「そんな訳ないじゃん。ヤク中相手に身体を売る程、命知らずじゃないよ」
『ふーん。知ってると思うけどヤク中は節操が無いから、気をつけろよ』
「ストーカーに言われたく無いし」
『そうキツイ事言うなって。とにかく、気をつけろよ』
「用件はそれだけ?これからまた客にネタ(薬)届けなくちゃいけないから、私忙しいんだ。またね」
友香は携帯を切り、薬を「後ろから」ポッキーの箱に入れる。ギザギザの開封口がそのままであると、一見開封していないように見える。
むき出しのまま薬を外に持ち出すよりは、幾分安全だ。安全に越した事は無い。
友香は、ポッキーをバッグの中に入れてから、客のいる待ち合わせ場所、飲食店に急いだ。
自宅から近い飲食店へ歩いて向う途中、友香は、自分の身体が薬をやっていた時よりも、幾分健康になっている事に気が付いた。
薬に蝕まれていた身体が、回復の兆しの一途を辿っている事は、足取りだけで、十分すぎるほど実感出来た。
飲食店に着き、友香の客が座っているテーブル席に腰を下ろすと、携帯電話をいじっていた友香の客が、顔を上げた。
「いつも早くて助かるね」
「ううん。こちらこそ、いつも買ってくれてありがとね。はいコレ、いつもの」
「最近ネタの質が安定してるからね。同じようなネタなら、イケてる売人の所で買うってね」
「へー」
「ま、そういう事だよ。あ、飯食って行くだろ?」
「うん。オムライス」
「またオムライス?いつもソレばっか食ってるじゃん。たまには他のモン頼めば?」
「私だって好きで頼んでるワケじゃないんだよね。何か、つい頼んじゃうっていうか」
しばらくすると料理が運ばれて来て、全て平らげると、客は財布を出そうとポケットに手を入れた。
「やべ、俺、財布忘れてきたみたい。ネタ代払えないから、ちょっと自宅に戻るしかないや」
「別にツケといてもいいよ。ここの分も払っとくし。次回ちゃんと払ってくれるなら問題ないし」
「俺ツケとか嫌いなんだよね。ちゃんと払わないと気持ち悪いっていうか。俺んちすぐソコだから一緒に来てよ。
帰りは車で送ってあげるから」
「・・・仕方ないなぁ」
面倒ながらも友香は了承し、飲食店を出る。車に乗ると、友香は口を開いた。
「良い車乗ってるんだね」
「あー俺、結構稼いでるから。売人だって、稼げるだろ?」
「まぁね。でも売人なんて、お金が無いと生きていけないから仕方なくやってるだけっていうか」
「それなら普通の仕事でもよくね?何で危険な仕事までして稼ごうとするかなぁ?まだ若いだろ?」
大抵の客には、友香の年齢などの個人情報は教えていないが、友香は実年齢の十八歳よりも大人っぽく見られる事が多かった。
理由は、高校生には見えない風貌、と言うよりも、高校生が薬物売人はやらないだろう、という先入観によるものであって、
友香自身は、特別老けている訳でも特別幼い訳でも無かった。走り出した車内に響くクラブミュージックを聴きながら、友香は口を開く。
「飢えた事ってある?」
「飢えた事?無いけど?てか、今の日本で飢えた事ある人なんか殆どいないんじゃない?」
「まぁね。けど、私はあるよ」
「マジで?」
「うん。そのせいか、お金は十分なのにもっと欲しくなるっていうかさ」
「ふーん。色々大変なんだね」
客と喋りながら友香は、ふいに窓の外を眺めた。すると、友香の目に一瞬、道端を歩く担任の和馬が映った。
客の自宅に行く道は、どうやら和馬の通勤ルートらしい。今の彼は、学校から自宅に帰る所だったのだろう。
友香は、一瞬声を掛けようとも思ったが、車をわざわざ止めるのもどうかと思い、思いとどまった。
「はい、着いたよ。近いだろ?ここが俺の家。駐車場で待たせるワケに行かないから、部屋に上がってってよ」
客の自宅マンションの地下駐車場に車を止めてから、エレベーターで最上階に上がる。客にドアを開けて貰い友香から先に部屋へ上がった。
部屋の中に入るなり、シュンの姿が目につき、友香は驚愕の表情を浮かべた。
後から部屋に入って来た客は、友香の首に注射器を添えて、身体の動きを制しながら、動くと頚動脈に打つ、と言う。
シュンは、友香が薬を止めた事を知っているから、友香が動けない事を知っていながら、非道な行為に及んでいるのは明らかだ。
「・・・シュン、どういう事?」
部屋にたたずむシュンに、友香が疑問を投げかけると、シュンは、笑いながら口を開いた。
「遅かったじゃん、友香」
「何の真似?」
「まぁ、新参者に、売り上げ上位を持っていかれたら、誰だって面白くないと思うよ」
友香は、シュンと和解した事を、後悔していた。甘かった。
「友香、俺に裏切られて悲しい?」
「・・・馬鹿馬鹿しい。悲しいどころか、むしろ冷めた」
薬が抜けて軽く感じていた身体が、再び重苦しいものとなった。少しでも軽くなりたくて友香は息を吐くが、身体は軽くならなかった。
「・・・もう好きにすればいいよ。動かないから、注射器をどけて」
「ふーん。友香、本当に薬止めたんだ」
「止めたよ」
友香とシュンのやり取りを黙って聞いていた客は、友香の首元から注射器を解放しながら言う。
「じゃ、このネタ、俺が打ってもいいよね」
言い終わると客は、自分の腕に針を刺した。反射的に友香は後ろを振り返り、客が注射する様子を見つめていた。
採血の如く、血管の血を吸い込んでいく注射器。赤い血が、中の白い薬を溶かしていく様。
完全に血と薬が混ざり合った液を、血管に注ぎ込む。
友香が食い入るように、注射する風景を見つめていると、黒い笑みを浮かべたシュンが、友香に声を掛けた。
「どうしたの?友香」
「・・・シュン、ネタ余ってる?」
「勿論。友香がそう言うだろうと思って、ちゃんと用意しといた」
シュンはそう言うと、ポケットから注射器と薬を取り出して、友香に差し出しながら呟いた。
「友香は、俺に飼われていればいいんだよ」
友香は、シュンの言葉が聞こえないふりをしながら、言い放った。
「これで、最後だから」
***
朝。客のマンション宅で飲まず食わずで騒ぎ明かし、眠っていない友香は酷く疲れていた。
マンションの通りを頼りない足取りで歩いていると、通勤途中らしい一人の男がこちらに歩いてくるのが見える。
「よぉ友香じゃねーか!昨日お前んち行ったのにいないとはどういう・・・アレつかお前、顔色悪くない?」
「・・・和馬。何、今から学校?」
「うん。つか、お前大丈夫?」
「・・・喉、渇いた」
「あぁ???」
和馬は、とりあえず友香をすぐそこにある飲食店まで連れて行く事にした。店に着いて友香が注文した物は、コーラとオムライスだった。
「友香、お前何があったんだ?」
「和馬に関係無いじゃん」
「飯食った途端元気になりやがって。お前はガキか」
「ガキだよ」
「都合の良い時だけガキ面しやがって。お前が大人顔負けな事してるの、実は先生知ってるんだぞ」
「え?」
「今日もお前ンところに寄るつもりだったから、この際ここで話しちまうけどな。お前、売人なんかやってて楽しいか?」
「は?」
「楽しいかって聞いてるんだよ」
「別に楽しくないけど」
「じゃあお前は負けだ」
「はぁ?何いきなり。私、これでも売り上げ上位だけど?」
「上位がどうした。大事なのは過程なんだよ」
「何それ」
「楽しけりゃ、多少の困難なら乗り越えられるだろうが。まだ若いんだから友香にとって、割と好める仕事を探せよ」
そんな理由で売人の仕事をとめられるとは、思ってもみなかった。
「何綺麗事言ってんの。和馬は飢えた事無いからそんな事が言えるんだよ」
「飢える?」
「そ。これが最後の食事だと思うと、何食べていいか分かんないんだよ。人間ておかしいよね」
「・・・・・・」
友香はテーブルの上の、食べ終わったオムライスの皿を見つめながら言った。
「オムライスなんか全然好きじゃないけど、飢えた時に食べたオムライスは、泣く程美味しかった」
しばらく、沈黙が続いて、和馬が口を開いた。
「・・・そうか。つまり、お前アレだろ?ようするに、腹いっぱい食いたかっただけなんだろ?」
「は?」
和馬の思いもよらぬ単純な解釈に、友香の気が抜けた。
「いや、え?何か違うような」
友香が困惑していると、さらに和馬は信じられない事を言った。
「卒業したら俺んところに来いよ」
「は?」
「腹一杯食わせてやるから。そんでその間に好きな事見つけろ」
「教師のくせに何いってんの?子供扱いしないでよ」
「いいや、お前も始めに言ってた通り、お前はまだガキだ。ガキが金の心配するもんじゃねーんだよ」
「な・・・・・・」
「ガキはガキらしく大人しく学校でも行ってろ。そしたらヤバイ仕事続けなくてもいいんだぜ?お前のトラウマもそのうち癒えるだろうよ」
「・・・・・・」
「危険な仕事をしている以上、トラウマは増えるばかりだぜ?」
友香の目頭が熱くなった。自分の為に、ここまでしてくれる人間は、今までいなかったからだ。友香に親は、いなかった。
「私、教師嫌いなんだよね。けど、薬はもっと嫌いなんだよね」
「だから?」
「私、胃下垂だから覚悟しといてね」
その言葉に、和馬は笑って答える。
「上等だコラ」
少なくともその時は、腹を空かせてやせ細った心が、お腹いっぱいに満たされる日はそう遠くないように思えた。