おはなし
□白い狂気(仮)
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岬と名乗る青年は、細くしなやかな指でクスリを掴むと、それを梨花に手渡した。場所は都内の路地裏で、人はまばらである。空を見上げると、七色に光るかのごとく輝いて見えた。素面にも関わらず、最高にハイな気分だった。
クスリをバッグにしまい込むと、梨花はその場を足早に立ち去ろうとした。が、その時だった。
「君、ちょっと時間ある?」
岬はそう言うと、口元に白い歯を覗かせた。彼はいわゆる「薬物売人」で、これまでにも彼に何度かクスリを売って貰った事があったが、所詮それだけの関係に過ぎなかった。異国を思わせる濃い顔立ちの彼は、背が高くて足が長い。
そんな岬の誘いに、梨花は少し考えてから、「いいよ」と小さく頷いた。岬は嬉しそうに笑うと、梨花の歩幅に合わせてくれた。ふわりと微かに漂う岬の香水に、梨花は気持ちがすっとした。
「君、いくつ?」
岬の問いに答えようとした時、梨花の携帯が鳴った。画面をみると、そこには特に親しいわけでもない同級生の名前が記されていた。梨花はとっさに、手にある携帯を真っ二つに折りたいという衝動に駆られた。何故そう思ったのかは分からない。でも確かに、梨花の内部に黒い憎悪のようなものがうっそりと息を潜めていたのだった。梨花は気を取り直して、携帯の電源ボタンを切り、平常心を取り戻そうと深呼吸をした。
「私は17歳で、名前は梨花っていうの」
しかし一旦バランスを失った心はそう簡単に修復されてはくれず、梨花の心はグラグラと溶けていった。そして徐々に、無気力になっていった。
(早く、早く、クスリが打ちたい)
岬の話に耳を傾けながら、梨花はクスリのことだけを絶え間無く考えていた。
「着いたよ」
岬に連れられて建物に入ると、ありふれた造りのホテルの一室が視界に広がり、部屋に入ると梨花は、手早くシャツの袖をまくった。
「さっそく打つね、私」
血管は太いのに越したことはない。バッグから取り出した注射器はとげのように鋭敏で愛想がなく、まるで不機嫌な猫の爪のようだった。狙いを定めて針を皮膚に打ち込むと、注射器の中筒を引いた。逆流した赤黒い血が清流のように注射器を満たしてゆき、全てのクスリを腕に注入すると、何とも心地よい眩暈を覚えた。視界は完全にひらけ、生まれたての赤子のように澄みきり、意識は鮮明に冴え渡っていった。
呼吸を整えながら岬の方を見てみると、彼も注射器を手にしてクスリの味を確かめているところだった。彼はじっと一点を睨みつけたかと思うと、ふいに呼吸を緩めた。
「うん。これは中々の代物だ。一昔前のネタを思い出すくらいの良いネタだ」
岬はそう言うと、ベッドに身体を投げ出した。彼の言う「昔」とは、一体いつごろのことなのだろうか。岬の年齢を知らない梨花は、彼に寄り添いながら問いただしてみると、岬は拗ねたように眉を寄せながら、「34」とだけ答えた。その時の岬の表情が、あまりにも子どもっぽかったので、梨花は少し驚いた。それと同時に、何処となく酔狂な岬に惹かれていたのも事実だった。
気付いたら梨花は、岬の頭に手を置いて優しく撫でまわしていた。岬はやや面食らった様子を見せたが、やがて梨花の手に身を委ね、心地よさそうに目を閉じてこう言った。
「君はすごいな」
何が凄いのかが分からない梨花は、笑いながら軽く受け流していると、ホテルの電話がけたましく鳴り響いた。岬がよろよろとベットから起き上がり、電話を手に取ると、
「はい。分かりました」
短くそう言って受話器を置いた。
「もう時間だってよ。ネタを食うと異様に時間が早く感じるが、何でだろうな」
岬はそう言うと帰り支度をし始めたので、梨花も慌ただしく散らかしたものを片付けて、身なりを軽く整えた。
ややクスリが抜けかけた中途半端なテンションで受付に行くと、岬がポケットをまさぐりながらオロオロとうろたえだした。
「どうしたの?」
梨花がそう尋ねると、岬がぼそりと呟いた。
「…金がないんだ」
梨花は目を瞬かせてやや困惑しながら、
「さっき私が渡したクスリのお金はどこにやったの?」
そういうと、岬は消え入りそうな声でぼそぼそと理由を述べはじめた。
「いや、実は、さっきここに来る前にコンビニに寄ったでしょ?その時に今日どうしても振り込まなくちゃいけない用事があって、金を全部振り込んじゃったんだよね。ははは、大丈夫だよ、そんな顔しないで。今から金を取りに俺だけちょっと出かけて来るから」
岬は早口でそう言うと、しょんぼりと下を向いた。仕方なく金がないことを受付の人に伝えると、梨花を人質としてホテルのロビーに置いていくことを条件に、どうにか外に金を取りにいくことが許された。梨花は不服に思いながらも岬の帰りを、ただひたすら待った。
20分後、ようやく金を手にした岬が舞い戻り、支払いを済ませ、ホテルの門を後にすることができた。
「いやー悪かったね。本当に、君を巻き込むつもりはなかったんだ。だけど君は、今回のことで俺を見る目が変わっただろうね」
岬が人を試すようにそう言うので、梨花は慌ててこう言った。
「いや、そんなことないよ。そりゃ、ちょっとは驚いたけど、何とかなったわけだしさ」
梨花はその言葉の通り、なんら気分を害してはいなかった。クスリさえ効いていれば、彼女は幸せだったのだ。もし岬に愛想をついたなら、離れれば良い。そんな軽い気持ちで、梨花は岬と共に、大都会の闇に消えていった。
つづく