おはなし

□砂の街
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 朝起きると、知らない男が居た。薄闇に溶け込むようにしてそいつは微笑んでいるけれど、目は笑ってない。冷たい眼差しをこちらに向けて、像のような体を持て余し、血の塊のような唇をいびつに引き攣らせる男の姿を目の当たりにした梅子は、ぶるっと背筋を震わせた。

(これは、何?)

 踊り狂う心臓に手を当てて、梅子は男をじっと見た。見ればみるほどこの世のものと思えずに、吐き気がこみ上げた。

 必死に頭を働かせ、男が何者なのかを考えた。ありえないものを認めてしまえば、今まで培った梅子の人格が崩壊してしまうかもしれないので、慎重に思考をめぐらせた。

(これは、幻だ)

 梅子は固く目を閉じた。最近なにか、幻を見るようなことをしたのだろうか。昨日も一昨日も、部屋に閉じこもってパソコンで仕事をしていただけだった。買い物は通販で事足りるし、仕事はメールで請けることが出来る。かれこれ5年間、誰とも口を聞かず、外出していないことを覗けば変わったことなど一つもなかった。

(そうか、これが原因か)

 梅子は竜巻のように服を着替え、顔を洗った。独り暮らしによって狂人になったのならば、今から外に出なければならない。
 
 靴を履きながら、ああと声を出してみると、声帯が弱っているらしく、蚊の鳴くような声しか出ない。梅子は不安に襲われて、手の平をしげしげ眺めた。狂人となった今、これまでどおりの生活をするのは無理だろう。
 何かしらの援助が必要になってくるし、精神科にだって掛からなくちゃならないだろうし、幻覚がもっと酷くなれば、仕事もやめなくてはならない。

(こんなときに一般企業に入社してれば、負担がいくらか軽くなったかもしれない。これだからいかがわしいネットの仕事はいけない。お金以外は何一つ得られやしない!)

 梅子は靴を履くのをやめて、部屋に戻った。寝室のナイトテーブルの引き出しから安定剤を取り出して、ぐっと飲み干した。玄関に戻ると薄暗い部屋の中から光輝く外の世界に溶け込んだ。安定剤を飲んだ安心感からか、頭は既に朦朧としていた。
 部屋に残された男といえば、霧のように姿を消していた。

***

 5年ぶりの太陽の光。それは忘れかけていた動物的な本能を呼び覚まさせた。刺すような光は喜びをもたらす反面、不安も感じさせた。梅子は帰りたい気持ちを小さな鞄に仕舞いこみ、細くしなやかな足を一歩踏み出した。途端に眩暈がし、目が焼けるように熱くなった。太陽の光があらゆる異変を体にもたらしているらしく、手で光を遮らなければ前に進めそうにない。梅子は顔を手で覆うようにして、慎重に歩みを進めた。

 5年ぶりの町並みは見るも無残に変わり果てていた。在るはずのおもちゃ屋が跡形もなく消え去り、在るはずのない無人マーケットがずらりとそびえ立っている。梅子は変わり果てた昔の恋人を見るような面持ちで、当てもなく歩き続けた。

(街ですら生きているというのに私ときたら。この二年間まるで変化はなく、死んでたかのようだ)

 驚くことに、人の気配は微塵も感じられなかった。梅子しかおらず、誰一人見当たらない。在るのは無機質な建物とよどんだ空だけ。小鳥すらおらず、辺りは海に沈んだかのような静寂に包まれている。

(煙草が吸いたい。それに何か飲み物も)

 よろめく足どりで自販機を探してみると、アダルトショップの前に飲み物の自販機が設置されていた。すぐさま駆け寄ってお金を取り出すと、どのボタンも赤く点灯している事に気が付いた。

(なんだ、故障か。それとも・・・・・・)

 風がうなり声を上げた。大量のほこりが舞い上がり、一瞬にして辺りを黄色く染めあげた。慌てて顔を覆ったのにも関わらず、おびただしい量の砂が目や口に入って粘膜を侵食した。梅子はきつく歯をくいしばり、頭を抱えながらじりじりと後退した。あまりの突風に、バランスを崩してしまいそうだった。砂と涙で顔をぐちゃぐちゃにさせながら、梅子はマスクとゴーグルをつけてこなかったことを後悔した。
 もはや帰ることは許されず、梅子は自販機の影に隠れ、風がやむのを今か今かと待ち続けた。

***

 どれくらいの時間がたったのだろうか。風にあおられ、干しっぱなしのTシャツみたいによれよれになった梅子は、意識が朦朧としていた。猫が通りかかりでもすれば、猫の腹をまくらにして眠りたかった。それ位、意識を無にしてしまいたかった。

 このまま倒れてしまおうか。そう思いかけたその時、砂嵐の向こうに人影が見えた。幻を見ているのかとも思ったが、影はこちらに近づくごとに鮮明になった。マスクで顔を覆った長身の男がこちらにやってくる。黒いマントをなびかせて、浅黒い手には血の滴る包丁が握られている。

(殺人鬼だ)

 梅子は驚愕したものの、生まれたてのひな鳥が最初に目にしたものを親鳥と認めるかのように、男に対して愛情のようなものを抱き始めていた。吸い寄せられるように男に近づいて、血で汚れた男の手を硬く握り締めた。

 男は驚いたように顔を上げたが、マスクで覆われているために表情までは読み取れない。梅子が微笑すると、男は肩に覆いかぶさってきた。梅子は驚きながら男を抱きとめると、腹のあたりに生暖かさを感じた。梅子が刺されたかと思いきや、引き締まった男の腹を見てみると、熟れたイチジクのような血が咲いていた。

(こいつ、怪我をしてる)

 梅子ははっとして、辺りを見渡した。この辺に休めるような場所があればいいのだが、どこにも見当たらない。みるもるうちに、男の体温は失われてゆき、梅子は焦りを募らせた。

(どこか空家を探さなくちゃ)

 梅子は男をおぶさって、歩みを進めた。二人の通った後には、花びらのような赤い血痕が付着していた。

***

 陰鬱な空気に包まれたその街は、梅子の生まれ故郷でもあったが、どこもかしこも変わり果て、知らない匂いが充満していた。雨のように降りかかる砂にはもう慣れて、梅子は目を細めながら大地を踏みしめた。時折男を捨てようとしては思いとどまり、足をとめた。死に損ないの男を連れて街を歩くには、代償がでかすぎたのだ。
 もはや梅子はくたくたで、なまりのように足が重かった。それに相手は殺人鬼、下手をすれば殺されるかもしれない。しかしあらかじめ殺人鬼と分かってる分、心なしか安心した。隣人が人を殺せば驚愕するけれど、殺人鬼が人を殺すのは当たり前なのだ。さすがに殺人鬼が負傷しているのには驚かされたが、それ以外に不思議なことは何も無かった。
 体力的な問題を除けば、梅子はこの状況に不満はなかった。でなければ、とっくの昔に男を放り投げていたことだろう。

(もしかしたら、不満がないことが問題なのかもしれない)

 男は目を閉ざしたままだった。ときおり苦しそうなうめき声が聞こえてきたことから、男の命が尽きてないことが伺えた。
 散々歩いて、やっと見つけたコンビニエンスストアに足を踏み入れた。が、何年も人が出入りしていないかのように荒れ果てていた。品物は盗まれて一つも残っていないし、店員はこつぜんとと姿を消していた。きっと他の店も同じ有様なのだろう。

(何故こんなことに・・・・・・。それに他の人はどこにいったの?この男が目を覚ましたら、聞いてみなくちゃならない)

 梅子は店内に入ると、倒れるように地べたに腰を下ろした。背中の男を下ろして寝かせると、その隣で大の字に手足を伸ばした。最早、抗うことのできない強烈な眠気が梅子を捕らえて離さなかったのだ。梅子はやがて眠りの世界に飛び立った。

***

 目を覚ますと、隣で寝ていたはずの殺人鬼が包丁を構えていた。包丁を握るその手には筋が浮き上がり、脈動の音がどくどく聞こえてきそうだった。
 梅子は冷汗を流しながら、叫び声を上げた。しかしあまりの恐怖に口の中が砂漠のように乾き、かすれた声しか上げることが出来なかった。

「どうかした?」

 声の方を見ると、戸惑いの表情を浮かべた殺人鬼が胡坐をかいて座っていた。えっと思って視線を戻すと、包丁を持った殺人鬼は忽然と姿を消していた。

「あの・・・・・・幻を見ていたみたい」

 梅子が声を荒げながらそう言うと、殺人鬼はいささか興味を持ったかのように身を乗り出した。

「あんた、幻を見るのか?」

「少しだけ」

「ふうん」

 殺人鬼が好奇の眼でジロジロと梅子を見回したので、梅子は居心地が悪くなった。

「人と違う風景が見えるってことは、悪いことではないと思うの。それに狂人になったお陰で、私は外に出られたんだから」

 梅子が負け惜しみでそう言うと、殺人鬼は笑った。

「ふん。俺は殺人鬼になったお陰で自分を取り戻したんだが、それはいいのか?」

「さあ。貴方がいいならそれでいんじゃない」

「ふん」

 殺人鬼は鼻で笑うと口を閉ざした。その横顔は何かを考えている風でもあったが、何も考えていないのかもしれない。傷は既に癒えたのか、彼の四肢はなんの不便もなさそうに見えた。驚異の回復力に、梅子は感嘆した。

「どうして人を殺したの?」

 梅子が思い切って問いかけると、殺人鬼は片方の唇の端を吊り上げて言った。

「コミュニュケーションだ」

「コミュニュケーション?」

 梅子が小さく聞き返すと、殺人鬼は頷いて、それきり口を噤んでしまった。ときおり外の暴風音が耳をつき、それが何とも気味悪かった。梅子は背筋を緊張させながら、口を開いた。

「それで貴方はこれからどうするの?」

「欲求が満たされたらこの世に未練はない。死ぬまでだ」

「そう残念ね。お仲間だったのに」

 男は梅子を凝視した。

「あんたも人殺しなのか?」

「似たようなもんよ。ただ私は本当に人を殺したんじゃなくて、間接的に人を殺したの」

「どういうことだ」

「手を下さなくとも人は殺せるのよ」

 梅子はそう言うと、宙を見詰めた。それはまるで猫のように、意味のないしぐさのように思われた。

「あんたも色々あるんだな」

 男はそう言うと、ごろりと横になった。梅子はそのまま、宙を見詰めながら呟いた。

「ねえ貴方、死ぬくらいなら私と一緒に来ない?」

「どこへ」

「幻のない世界よ」

 梅子はそう言いながら、視線を宙に向けたまま黙りこくった。男はその様子を奇異に感じたものの、死ぬ前に誰かと遠くに出かけても、罰は当たんないじゃないかという思いに駆られた。

 男は納得したように、力強く頷いた。梅子は男の横顔を、ぼんやりと見詰めていた。

***
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