おはなし

□知らない自分
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 逃げるようにラブホテルに駆け込んだ男と女は、お互いの幸せを祈るかのように手を握った。ホテルの外観は派手でも、男女の内情は複雑だった。互いのために流す涙は枯れ果て、残ったのは衰えた筋肉だけ。全身の細胞は死滅し、血はよどみ、目はうつろ。にも関わらずラブホテルに来た理由は、単純に休むだめだった。
 一番安い部屋の鍵を受け取ると、二人は寄り添うようにエレベーターに乗った。沈黙。互いの存在を意識することなく、男女は限りなく心を透明にした。思考は猿の如く、働かなかった。

 ドアノブを回すと、こもった空気と壁に染み付いた煙草の匂いに迎えられた。歓迎の意味を示さないそれに、女は顔をしかめた。
 男は煙草を取り出して、胸いっぱいに吸い込んだ。女は風呂場に直行し、お湯を身体に叩き付けた。さらに化粧も落とし切り、スポンジで赤くなるまで身体を擦った。ふいに鏡を見ると、知らない自分が居た。女は冷笑した。

 バスタオルを身体に巻いて部屋に戻ると、男がテーブルに錠剤を並べていた。女は逆上した。

「今日は休むって約束したでしょう?もう三日も寝てないのよ」

「いいじゃん、ちょっとだけ」

 日常的に乱用する薬物によって理性が飛んだ男は、我慢を忘れたらしく、錠剤を奥歯で噛み砕いた。女はため息をつきながら、約束の一つも守れない恋人と共に居る意味を考えた。

「なーんか効きが悪いなー」

 男はまた一つ錠剤を口に入れた。女は助言をするのを諦めて、疲れた身体をダブルベッドに預けた。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。女が目を覚まし、静寂な室内を見回すと、泡をふきながら倒れている男の姿が目に映った。
 女は声にならない悲鳴をあげ、傍に駆け寄った。男の頬に手を差し伸べようとしたその時、二人の間で交わされた「ある約束」を思い出した。

『もしも俺が薬のやりすぎで死んだら、お前は逃げろ。絶対にだ』

 男の言葉を反芻し、小刻みに震えながら服を着た。そして約束を守った。ホテルを出る際の横顔もまた、知らない自分だった。


20130330

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