おはなし

□無音の世界
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 葵は週末になると決まってクラブへ訪れた。音を見たいからだ。葵にとって音は聞くものではなく、見るものだった。
 クラブに向う葵の顔にはやりすぎと言える位、過剰に化粧が施されていた。過度に着飾るという行為は、自分を安心させたいという表れなのかもしれない。
 クラブに着いてからフロアに出ると薄暗い周囲を見渡した。照明の暗いクラブをわざわざ選ぶのは、照明の色と音の色が合ってないと気持ち悪いからだ。合わない色を押し付けられる位なら、はじめから照明など無い方が良い。また、クラブに来てまで音を見なくとも、自宅で音楽を聞いていた方がよっぽど鮮明に音を見られるのだが、あえてそうしなかった。

「葵ーこっちこっち」

手を招きをする長身の男がいた。類だ。葵は類のもとに駆け寄ってハグを交わした。
 それから会話を交わすことはせず、二人で音楽に乗った。類はクラブで出会って以来、ずっと仲良くしてきた友人だ。笑っているのに笑っていない、引きつけておいてすっと消える、そんな繊細な印象を漂わせる男だった。事実、類は繊細すぎる男だった。あの照明はおかしいだの、あのDJは分かってないだの、クラブの帰り道によく愚痴を聞かされた。彼は自分の世界観から外れたものは一切受け入れないらしく、病気とも言える程の強いこだわりを持っていた。彼の気持ちは葵にも分からなくはないのだが、頑ななこだわりを持つという事は、生きにくくもあるという事を知っていた。なのであまり熱くならずに気持ちを調整しつつ葵はこれまで生きて来たのだが、彼を見ているとそういった中途半端な自分が恥ずかしく思えるのだった。
 
(今日は特に気持ち良い)

葵が類を見やると、類は軽く微笑んだ。一見、二人はただ踊っているだけに過ぎないが、感覚の共有という「会話」がなされていた。喋ることだけが会話ではないのだ。
 二人は互いの職業すら知らなかった。クラブからの帰り道、葵は類にふとして聞いてみた。

「類ってさ、何やってる人?」

類は答えた。

「フリー演奏者」

「ふーん」

何を演奏しているのかなどの詳細は聞かなかった。駅前で騒がしいのにも関わらず、二人を取り囲む空気は無音そのものだった。ちらと類を見やると、彼は笑みを覗かせた。葵は呼吸のリズムまでもが類と同化したような気がして、とっさに無音を打ち破った。

「無音の世界に行きたいな」

「無音?」

「そう、無音」

「あるよ、俺んちに」

類はそう言って、葵の手を引いた。着いた先はとあるマンションで、そこはまさしく無音の世界だった。防音室になっているから静寂に包まれていて、床には楽器や楽譜が大量に置いてある。ケースから察するとトランペットなので、類はトランペット奏者であることが分かった。吹いてみて、とは言わなかった。

「楽器って三日演奏しないだけで、微妙に勘が鈍っちゃうんでしょ?」

「そうだよ、時間がなくても必ず一日一回は吹く。今まで積み上げてきたものが無駄になるからね」

「へー、怖いね」

「うん、でも」

類は一旦言葉を区切って呟いた。

「たまに壊したくなる」

そう言って、類は葵の唇に触れた。粘膜の味がした。二人はそのまま抱き合って、身体と感覚を「融合」させた。
 昼ごろ、葵が眼を覚ますと彼は首を吊っていた。遺書が置いてあり、誰に向けたものかは分からないが謝罪の言葉がつらつらと並んでいた。
 無音の世界に羽ばたいた類との思い出を抱いて、葵は強く生きようと思った。


【完】

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