チェシャ猫と戯れ(オリジナル)

□穢れ払い
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十八の灯 穢れ払い
時間を数時間、遡る。その時、紅月はルチル地区へ向かう為のルートを通っている所だった。ルチル地区にのみ発生する自然現象。それは地区を覆う霧だった。まるで護るかのようにルチル地区を覆っている。存在を知る者は数多く、皆からは“ルチルの自然結界”と呼ばれている。霧の濃度は非常に高く、霧の濃度や流れといった僅かな変化でしか道がわからない。故に人々は結界と呼称するのだ。
地区に入る途中、偶然リャンと出会った。彼女は慣れない霧に戸惑い、道に迷っていたようだった。紅月はリャンに声をかけた。
「リャン。ルチル地区に用が?」
「あ、いえ、用はないのですが、たまたま通っただけで、私の班は帰り道が解らなくなってしまったんです……」
 話して行くうちに俯き、途方に暮れている様子だった。声もなんだか尻すぼみだ。
 紅月は、ふと思いついたかのように道を教える代わりに、と自分の伝言を朱雀に伝えてくれるようリャンに頼んだ。
 『朱雀の者達に継ぎます!政府本部に侵入している二名と、残りの者はルチル地区で、龍神を祀っている社のある村へ向かって下さい!紅月さんがそれをお望みです……!その場所へ誘導して欲しいとの言伝を承りました』
 こうした成り行きで紅月の想いは朱雀の者達へ伝わり、リャンの帰り道を案内しようとした。だがリャンは視線を斜め四十五度下げながら、何かを思案したのか。紅月の姿を捉えると護衛をさせてくれと頼んできた。紅月の事が気がかりらしい。必要ない、と紅月は断ったがリャンは引き下がらなかった。
 紅月はもう一度、ゆっくりと断った。今度は声をワントーン低く下げて。リャンは渋々と言ったように、それを承諾した。そして紅月は、そんなリャンの前を歩きだす。
 しばらくして、霧が晴れた場所に出た。そこはルチル地区との境界線である。 この時のリャンは少し前から紅月の動きが気になり、その動向に目を光らせていたのだ。道に迷い、ルチル地区に居たわけではない。彼女は密かに待ち伏せようとした所を、紅月に見付けられたのだ。
 紅月と別れ、彼女の姿が見えなくなるくらいの場所で、リャンは足を止める。
「どうして…こんなに胸騒ぎがするのでしょう……!」
戸惑いの色を隠しきれず、ポツリと小さな声でそう呟く。
「リャン班長。テイト班長からの伝言です!次に向かう場所を伝えるようにとの事で―」
「その指揮に関しては、副班長。貴方に一任します。私は一人だけでも紅月さんの動向を把握しておかなければ……。なにやら良くない事が起こりそうな…そんな気がするのです」
 副班長と思しき青年は苦々しげな表情を浮かべ、やがて頷いた。下の者が上の者の命令を無視する事は許されない。それ以前に、一歩も動こうとする意思が見えない彼女の決意を感じたのだろう。
 紅月の方はと言うと、ルチル地区の中央部へ移動すると目を閉じた。
 橘が来るのに、そう時間はかからなかった。場所は政府本部に最も近い竹林だった。
「少し遠い……」
 その時だった。紅月は他の仲間の気配も感知した。橘がやって来た方角からは風と霞を。
周囲からは二人と行動を共にしていた、数名の仲間がやって来た。
 紅月と橘の距離は未だに離れている。恐らくは、風達が先に追い付くだろう。ならばと思い、紅月は橘の始末を仲間に任せ、自分は式のある方角へ身を翻した。式のある場所は、社にある祠の目の前。そこに立ち紅月は静かに瞼を閉じ、詠唱を唱え始めた。
 これで負も、全て浄化される―。私の役目が…終わる……。
「悪しき穢れを払いし光は秩序を保つ。贄を供物とし、糧とし、この国に再び安穏を約束する―。我、姫巫女!真名はリリア!これにて穢れ払いを行使する!」
 やがて紅月の体は宙へ浮かび、大気が凄まじい冷気を帯び始めた。足元から徐々に氷が体を覆う。全身を凍るには時間がかかるが、誰も紅月がこんな場所で死のうとしている事には気付くまい。そして紅月にとって、それが少し哀しくも思えた。
 誰も知らない場所で、誰にも知られずに死んで行くのが、寂しいと思えたのだ。体の方は半身程氷に覆われた。その時―、自分の腕を掴む温かい手の感触に驚き、目を開けた。
「……風」
「何やってんだよ、お前は!」
 掴まれた腕を引っ張り、紅月の体を氷から引き出した。その時、紅月はハッとなり、式の方を振り返る。
「穢れ払いが……!」
振り返った先には紅月の代わりとなって、霞が後を引き継いでいた。
「霞!」
 子供のように暴れる紅月を、風は羽交い締めにして食い止めた。
「どうして…何で……!」
 遂には泣きじゃくる紅月に、風が静かに答えた。
「アイツなりの…けじめだ……」
 そして霞もまた、口を開きだした。
「俺は朱雀の“裏切り者”だ……。俺が水月を殺した事に…お前は俺を恨み、憎み、殺そうとした……。だけど殺しきれなかった……。お前はいつも…詰めが甘いんだよ……」
 涙を流しながら言葉を紡ぐ霞の顔は、穏やかでもあり、切なくも見えた。
「俺は漠然とした目的しか持っていなかった……。平和な世の中にする。それが俺の夢だった。…でもそれは結果だ。目的じゃない。朱雀を裏切った俺は居場所を失くし……曖昧な立場でいた…ただの傍観者だ……。だからこれは俺の…罪滅ぼしだ。自己満足だ……。
俺の為を思うなら…このまま死なせてくれ……」
 首元にまで到達した氷を見て、紅月は泣き叫んだ。馬鹿だ、馬鹿だ、と罵り力いっぱい目を瞑って叫んだ。
「穢れ払いは…私の役目なのに……!」
「アイツの気持ちも…汲んでやってくれ……」
 風は静かにそう呟くと、風も一筋の涙を頬に流した。
「しあわせに……なれ…よ…」
 それが霞の最後の一言。その言葉を言い終えると、氷の中から大きな光の十字架が現れ、霞の肉体と共に氷は砕け散って行った。
 大地に溢れていた負も、今では綺麗に消えていた。先程の十字架を見たからか、背後から仲間が駆けつけてくるのが分かった。
……焼き払おう、この場を。この真実は自分以外に知られないように。
紅月は指先から炎を出して、静かに優しく息を吹きかけた。
知らなくていい、こんな悲しい出来事は。覚えていなくていい、皆には皆の幸せがある。
  蒼い炎はやがて海の様に全てを包み込む。紅月はその炎の海を背に、仲間を集め話し出した。仲間達は緊迫した空気の中、固唾を飲む。
「みんな、今まで辛い思いをさせてしまって申し訳ない。過程はどうあれ、新たな命を奪ったのは紛れもないこの私。霞が亡くなった事実。自分たちの体内構造。様々な辛い過去を背負って生き、幸せを掴もうとしてもそれは至極困難なこと。だからもう、覚えていなくていい。
 安心して、この国には私の力の残滓を残して行く。この蒼い火は悪しきものを焼き払う『浄火』の炎。故郷の村へ戻り、宝俱澱の中にある物を媒体に結界を張れば安全。
それと私の身勝手な数々の独断行動を許して―」
淡々とした口調での解説も、そこまで言うと紅月は皆に向けて掌を突きだし仄白い光で包みこみながら最後に一言。
「くれなくて、いいから―」
 その呟きを合図に光が弾けるようにして霧散する。これで仲間達は本当に昔の幸せな時間を取り戻す事が出来る。とても鮮明でリアルな、非現実的な出来事は皆の記憶では無かった事になる。そうして“いつも通り”だった現実を過ごすのだ。
「白銀、黄金。残った最後の大仕事、片付けよう」
―……これで本当に、彼らは幸せなのかな。
「確かに一方的過ぎたかも知れない」
―紅月、お前は恐ぇんだよ。覚えている事が、責められる事が。違うか?
「白銀の言う通り、恐い。けれど彼らは苦しんだ。そんな日々を再び思い出させたくないと思うのもまた事実」
 村へ戻った紅月は予定通り、真っ先に宝俱澱へと向かった。年季の入ったその倉の中は久しく、懐かしいヒノキの香りが漂う。気持ちが落ち着いた所で紅月は、ある箱を取り出した。箱には鍵穴も蓋も存在しない。あるのは奇妙な半円の窪みだけだった。紅月は懐の刀をスラリと抜いて、迷わず指先に当てると当然の如く血が出てくる。その血を窪みに滴らせることで、箱はどういう仕掛けか、カシャンと音を立てて中身を見せる。そこには綺麗に透き通った球体があった。
「静かなる蒼き炎は、邪なる悪しきモノを祓いたまえ。龍神の血を継ぐ者である我が真名、リリアの名にかけて」
 スルリと滑り込むように蒼い灯火が球体の中へ入り、蒼で満たすようにゆっくりと渦巻く。
「これを、祠へ祀っておこう。きっと父様も、力を貸して下さる」
―紅月は、これからどうするつもりだい……?
「仲間の誰かとすれ違うだけでも思い出す可能性がある。そんな現状では生きる事すら難しい。ここでない、違う世界へ行こう。瞬間転移装置を活用すれば、次元に繋がる道を辿り異世界へ行くことも恐らくは可能。彼らに手伝ってもらおう……。」
 この戒めと共に、新たなる世界へ私を誘え。
 例え変わらぬ過去を持ってはいても、変えられる未来があるのだから―。

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