お題

□心失くした瞬間
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昨夜、父親に殴られた頬が痛い。

かすかに血の味を帯びた唾を飲み込む度、頬骨の辺りが鈍く疼く。


登校一番に男子トイレの鏡で確認したら立派な青痣が出来上がっていた。指摘してくれるような友達もいないし、自分で見なければ分からなかっただろう。

いつもは服に隠れて見えないところを傷付ける癖に。判断能力が欠落する程に荒れていたのだろう。

泥酔しきった父は危険だ。

あるのは保身と自己愛だけで元々常識など持ち合わせていないに等しいのに、アルコールが入る事で更に見境がなくなる。


自分がこうしている間も、母が父に理不尽な暴力をふるわれていると考えると気が気でない。母は自分とは違い、抵抗すらしないから。


――反面、父の力の及ばぬこの空間に安心しきっている自分がいて、ぞっとする。


別に義務教育なのだから、無理に登校する必要はない。卒業したらすぐ働いて自立する予定で、進学するつもりもないから尚の事。


そう。自分は学生という立場に託けて、母を身代わりにしているのだ。



「……最悪。最低。外道。下衆。卑しい、吐き気がする人間のクズ。

死ねばいいのに」



自己嫌悪に駆られ、思い付く限りの罵倒を誰に向けるでもなく呟き、そのまま教室に戻った。


顔に痣をつくろうがどうせ誰にも注目されない。いてもいなくても変わらない存在。今日も誰とも喋らず、下校するだろう。喋ったとしても教員とか義務的な会話。


父に振るわれる暴力が彼の日常のメインなのかもしれない。

皮肉にも、殴られて生きている事を思い出す。

けど、痛いのは嫌いだ。……なんて、人間ぶった建前で、本当は生きている事を自覚したくないのかもしれない。

死んだように無感情に、亡者のように生きたい。
心を廃棄して、何も感じない体になりたい。

外からも中からも何の刺激もない生活が続けば、いつかそうなれる気がしていた。



「最悪。最低。外道。下衆。卑しい、吐き気がする人間のクズ。

死ねば――……死にたい」



定位置の自身の席で、いつの間にか口走っていた。


飲んだくれの無職の父と毎日泣いてばかりの母が彼の世界の全てで。貯金を切り崩して何とかやりくりしているギリギリの生活が当たり前で。寄り掛かれるような存在も無い。

よくある悲劇の形だ。

だが。

その環境が、破綻した、彼の人格を形成した――否、喪失させたのだ。



そして、これからの彼の心の在り方を決定付けた事件は、前触れなく起きた。


学校が終わり、いつも通り鬱々と帰宅した彼の目に写ったのは。





血まみれで床に倒れた父に、包丁を片手に呆然と佇む母だった。




今から九年前。

春日居淳生(あつき)、十四才だった。

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