本編
□六章
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第二十六話
前から隣に
「やぁ、久しぶりだね“バニー”」
「俺の名前はバニーじゃねぇ」
「ん、知ってる……“ばにお”でしょ。だからバニーなんだよー」
「紅雄だ」
「ばにお」
「紅雄」
「ばにお」
「……」
「……」
「……もう、ばにおでもバニーでも好きに呼べ」
嘉帆を早退させた後。億劫になりつつも紅雄は六時間目の授業を途中から受け、放課後はいつも通り生徒会室で生徒会業務に追われていた。
当然ながら、垣田と恭太郎の姿はもうそこになく驚くべき事に扉は元通りになっていた。
だが、いつも座る机は一品限りの特注品だからか残骸こそ撤去されていたがそこには無かった。
だから、いつも嘉帆が座る来客用のソファーと机を利用した。机が低いので腰が痛い。
大方、恭太郎の仕業だろう。
何のつもりかは知らないが、今は彼に対する怒りは鎮火され、比較的落ち着いていた。嘉帆が無事ならそれでいい。
……山のような書類の処理にようやく一段落ついた時。
突然の来訪者は少し懐かしい人物だった。
生徒会所属でありながらも部活動に勤しむあまり、生徒会業務が疎かになっている書記・木賀薫である。
冒頭のやり取りの通り、相変わらずマイペースな奴で扱いに困る。
「就任以来ほとんど顔も出さなかったお前がどういう風の吹き回しだ。部活動の方はいいのか?」
「少し抜けさせてもらっただけだからすぐ戻るよ」
「そうか、だから水着姿なのか」
「うん」
何故か得意げな顔の薫の足元に視線を落とし、紅雄は声色を低くした。
「ふざけんな。ちゃんと脱いでから来いよ」
「うわ、バニーってばエッチー」
「そうか、お前には足元の水溜まりが見えないのか。どうせ廊下も同じ有様だろ、全部拭いて帰れよ」
「えー」
ロッカーの中のモップと雑巾を顎で指し示すと、薫は露骨に顔を歪めたが。紅雄の眉間に二割増しでシワが寄っているのに気が付き、首を傾げた。
「なんだかご機嫌ななめだね」
「そうだな、あまり体調が優れない」
「だからって僕に当たらないで欲しいなー。うわ、目、真っ黒けじゃん。ていうか何で吸血絶ちしてんの。学園中で噂だよ」
「あぁ、貧血で死ぬ程頭が痛いし吐き気もする。でも、心配せずとももう“やめる”つもりだ。明日からは通常通り吸血する。いざという時に血液不足で動けないようじゃ困るからな」
血の足りない吸血鬼の弱さを今回の件で紅雄は強く実感した。
大きな力量な差、咄嗟に機転を効かせたのと、単純に運が良かったおかげでどうにかなったものの、毎回そうやって危機を脱する訳にはいかない。そう何度もうまくいく訳がない。
嘉帆がいる穏やかな日常に揉まれ、失念していたのだ。自身に流れる化け物の血を誇る自尊心の強い血族達には、紅雄は嫌われものだ。
常に万全でなければ、傍にいるだけでは嘉帆を守れない。
無論、吸血するにしても彼女の体調を最優先するつもりだが。
「君って勝手だよね」
「おい、ソファーに座るな。濡れるだろうが」
呆れた風に紅雄に言われ、薫は不満げに腰を上げる。
そして、残り少ない未処理の書類をさばく手は決して止めずに紅雄は続けた。
「今日もどうせロクでもない用事なんだろ、言ってみろ」
発言を促すと、何でもない事のように薫は言った。
「生徒会辞めたいんだけど」
その一言で、更に紅雄の頭痛は悪化した。
「勝手なのはてめぇの方じゃねぇか」
予想はしていた事態であるのに、実際に直面してみると強い憤りと少しの動揺を覚えた。
相変わらず手元だけはせわしなく動かしていたが、印鑑を握る手が震え、証印が僅かに枠から外れてしまった。
怒鳴り散らしてやりたい気持ちを抑え、紅雄は口を開いた。「理由は?」
「部活動に専念したいから。
大体、書記だなんて僕には合わないジャンルだったんだよー。先生に頼まれて仕方なく入った生徒会だったし」
「それでも同意したのは、お前本人の意思だろうが」
「立場を弁えての同意だったんだよ。僕は混血だけど、何世代も前の先祖が人間と交わっただけで妖怪の血の方が濃いからネ。まぁ、結局僕はバニーみたいに大勢の上に立てる器ではなかったんだよ。せいぜい部長ぐらいが相応なのさぁ」
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