本編
□序章
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序章
吸血鬼と芳香
他者により肌が破かれる感触は未だに馴れない。
もう何度も体験しているというのに、痛みを甘受するというのは思う以上に難しかった。
「――……ぅッ、」
少女の唇を割るうめき声。
堪え難い激痛を何とか外側に逃がそうと、無意識に発していた。
何かにしがみつこうと伸ばされた手は掴み所を得ず、宙をさ迷うだけで。しなやかな太さの両腕により拘束されている少女の体。
隙間なく肉体同士を密着させ、華奢な肩には少女同様まだ幼さの残る少年の顔が埋められていた。
押し付けられるような形で接触しているこの肩や背中に少女が縋る事は……絶対に許されないのだ。
少女――小野田嘉帆は、うめき声と激痛を堪えるため、唇の薄皮を強く噛んだ。
歯と歯が合わさり、口内に鉄分の味が広がる。唇がジンジンと痛む。
人間の体は限界を超えてしまわないための危険信号として痛覚を備えている。
自分の信号も、こういう時は常に赤が点灯しているのだろうか?
と、渦を巻く思考の中心でふと嘉帆は思った。
その時。
「暴れるな」
おとなしくしてろ。
端的に言われ、犬か猫にでも命令するように襟首を引っ張られた。
嘉帆の肩に埋めていた顔を上げた彼は、同時に肩と首筋の間に突き刺した鋭利な“それ”も抜いていた。傷口から鮮血が溢れる。
「っ」
「動くなよ」
念を押すように再度命令した彼が血の湧き出る裂け目を一度舐めると、不思議な事に少女を苛んでいた痛みが治まり、たちまち血が止まった。
破れた肌が繋がり、歪な“噛み痕”となる。
それは『吸血痕』というのだと、前に教えてもらった。
それは文字通り、牙を刺され、血を吸われた痕の事だ。
また一つ、少女の体に吸血痕が増えた。
年頃故に体に痕が残る事に対して悲観する気持ちもあるが、それでも心の内の大半は「仕方がない」という感情が占めていた。
彼は嘉帆の気持ちを意に介さず気まぐれに色んな所に噛み付き、痕を作るから、何とか隠せるような位置につけられただけ今回は運が良かった。
彼の両腕から体が解放された。
まず何より先に、白い肌に映える赤い痕を隠すように嘉帆は乱れた制服を整えた。
ワイシャツの襟に自分の血が付着している事に気が付く。
――ホームルームが始まる前に着替えなきゃ。
よくある事態のため、ワイシャツの予備はいつも持ち歩いていた。
生徒会室の掛け時計がまだ八時二十分に達していない事を確かめ――室内に充満する妙な沈黙が気にかかり、再び正面に顔を向けた。
「会長……?」
ソファーに座る彼に嘉帆が遠慮がちに腰を浮かせて跨がり、向かい合っているからお互いの顔が良く見える。
格好だけ見ると愛し合っている恋人のようであるが、吸血するのに一番楽だからという理由でこの体勢を取っているだけで艶めいた意味合いは一切ない。
でも、嘉帆からすれば当初から羞恥心を煽る事に変わりはない。
現在では慣れか諦めか成長か、緊張しながらではあるが自分から膝に乗れるようになっているが。
恥ずかしさに頬を紅潮させる少女の姿を、彼は毎回優越感たっぷりに楽しむのだ。
――だから最近は、彼が不機嫌になるのも目に見える形で少なくなっていたのに。
また“こういう状態”に陥ってしまった彼は、ちょっとだけ久しぶりだった。
嘉帆は、じっと彼を見た。
焦げた色をした茶髪を見つめると、ギュッと寄った眉根の下の赤い双眸と視線が交わる。血みたいな暗い赤。
縁取る睫毛は長くもなければ短くもない。
鼻はスッと鼻梁が通り、少し血色は悪いが形のいい唇は薄い。
世間一般的に美形に分類される顔立ちであるのは明らかである。
彼を見ていると、美人は三日で飽きるだなんて嘘だと改めて感じる。
「会長、もうお腹空いてないの?」
彼と嘉帆の間に会話がないのはいつもの事だ。無視されるなんて事もたいして珍しくない。
「喉、渇いてない?気分は?」
返答は無し。
それでも怖ず怖ずながら一方的に嘉帆が問いかけていると、前髪のかかった彼の眉間のシワが一層濃くなった。
「……っ!!」
隠そうともしない苛立ちに、喉を絞められているような圧迫感に襲われる。
瞬時に少女の自己防衛反応が働き、思わず身を引こうとした。すると。
「――嘉帆」
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