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□7days
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 葬儀の次の日も、また次の日も、わたしは引き摺る体を叩き起こして出社した。翌日起きなければ、一生起き上がることが出来ないと思ったからだった。修司を忘れられないからといって、それに流されてしまう自分に翌朝には疲れ果ててしまったのだ。わたしの仕事は普通の事務職だったから、変わりに働いてくれる人は居た。けれども、早く日常生活に戻りたかった。
 仕事帰りの運転中、赤信号に捕まって停止していた。信号待ちをしながら辺りを見渡すと、街中が騒々しい。それはなぜだか他人事のように感じた。世間から切り取られた箱のような場所から、そうだ金曜日、と小さく呟く。あの日も、修司の訃報を聞いた日も、金曜日のこんな時間だった。仕事から帰って、冷蔵庫を開けてビールを飲んで、明日からの休日を期待する、そんな有意義な時間を一瞬だけ味わった週末だ。その直後に鳴った携帯から、わたしは訳の分からない衝撃を受けることになるのだった。もう一週間、まだ一週間?とにかくあの日から一週間経っていることを、今更ながら知った。
 あれからの毎日は今日も含め、慌ただしい日々が続いていた。彼が死んだことなど、全くないものと扱われているような一日が、毎日毎日同じように過ぎていっていた。それも当然の話だ。わたし以外の社員で、修司を知っている人は居ない。それに、葬儀も日曜日に行われたから、わたしがそこに行ったことを誰も知らない。誰にも話していない。
 ただ、こういうぼんやりとした時間には無性に思うのだ。こうして日々を過ごしていけば、あの人への気持ちや思い出も、いずれ消えてしまうのだろうか、と。修司の周辺からも友人からも、わたしの心からさえも。
 嫌だなあ、それだけは嫌だなあ、と思う。わたしだけは何が何でも、例え頭をかち割られたとしても覚えていたいし忘れたくない、そう思うのだ。
 最近のわたしはよく眉間に皺が寄っている、と言われることが多い。皺に効く美容液あるんだーってさ、そんなことじゃ治らないんじゃない?同じ事務員の女性に、その時は愛想笑いをしたけれど、心の中では悪態を吐いた。唾でも吐いてやろうかな、なんつって。苦笑しながら、眉間を軽く押さえた。嫌だなあ、泣きそうだ。一瞬でも気を緩めてしまえば、今も尚、思い出しては涙が溢れそうになる。
 それも今日で終わりにしたかった。実は明日から一週間、わたしは休暇をもらっていた。だからそれで、修司の思い出もきちんと笑顔にしたかった。ずっと泣いている自分にはもう辟易している。その休暇は前々から取っておいたものだから、あんな事が起きるまでは明日からの一週間を楽しみに、どんなに慌ただしくても忙しくても仕事を片付けていたとように思う。毎日毎日、日々それに追われて余裕もなく、日本人はなぜこんなにも働くのかと疑問を抱きながらも、わたしは黙々と働いていたのを思い出した。
 休暇を取った理由は、あの人と二人でのんびりとどこかへ行こうと話していたからだった。それは随分前に、旅行好きなあの人が言い出したことが始まりだった。だけれど、わたしは特に行きたい所もなかったし、修司と一緒に居られればそれで良かった。それに、特に修司は忙しいから、体が休まれば良いと思っていて、場所は当日決めようと言いくるめたのだ。しかしあいつはわたしの言うことを全て無視していきなり海外へ飛ぶと、そんなことも言い兼ねないから、それなりの貯蓄もしてあった。二人で一週間の休暇を合わせるのはなかなか難しくて、ようやく合った一週間は明日からスタートのはずだったのだけれど、あの報せが全てを無に還した。結局、想像上にあった幸せな一週間は、成し遂げることが不可能になってしまう結果に終わったのだった。
 だけれど、折角の一週間もの休暇だ。本当に海外にでも飛んでやろうかな。パリ、ニューヨーク、ベタにハワイ。好きに過ごして、好きな物を購入して、それこそ皺に効く美容液を買ってしまおうか。あと欲しかったワンピースもあるし、久々に美容院へ行って髪を整えてネイルもして、ほら、やりたいことは山ほどある。全部してやろう、そう思った。
 でも多分、海外へ行けばその景色を修司に見せたくなるだろうし、美容液を買えば自己満足でも綺麗になった自分を見せたいだろう。ワンピースを買えばそれを着て一緒に出掛けたいだろうし、髪とネイルをすればやはり見せたくなるだろう。まだ消えない。当然だけれど、修司への思いはまだ、消えない。そうだ、大体自分から旅行へ行こうと言っておいて、死ぬというのはどういう了見だよ修司。
 もう居ない人に汚い八つ当たりをして、わたしは一体何を考えて居るのだろう。どうやっても頭の中を整理すること出来ず、感情のコントロールは全然上手くいかなかった。だから帰宅中、今日は飲んでやると決め、車を途中のコンビニエンスストアで停めた。そしてアルコールを大量に購入し、つまみもデザートもお菓子も食べたい物は全て買った。自棄酒でも何でも構わなかった。それ位しなければ収拾がつかない、そう思った。
 今日で終わらせよう。そうはっきりと決め、必ず終わらせてみせると勝手に意気込んだ。けれども、こんな風に身勝手でも純粋な感情より、同じ身勝手でも不純な気持ちで事を進める方が案外上手く行くものだ。わたしと修司もそうだったもの、だからあんな風にずるずると旅行の約束まで出来た。それでも、もう沢山だと思っていた。どうにかしたかった。浴びるほど飲んで寝て、明日からの休暇のことは、明日考えればいい。そうだ、あの人のことを考えて腐っていても仕方がない。修司とのことは、笑顔で思い出していたい。
 アパートはもうすぐそこだ。






 部屋の前まで着くと、誰かがドアの前で座っていた。その人は眠っているのかキャップを被ったまま俯いていたから、顔が全く見えない。Tシャツにダメージデニムを履いていて、横にはなぜか大きめのボストンバッグが置いてある。わたしは目の前の人が身に着けているキャップもダメージデニムもボストンバッグも、その全てを見たことがあった。酷く似通った風貌の人間を一人知っていた。まさかね、そう思った。
 また眉間に皺が寄ってるかも。わたしは額に手を当てる。胸が急に傷んだ気がして、息が詰まった。その人に聞こえないように息を吸って、ゆっくりと吐いた。そうだ、彼なはずがないじゃないか。あの人である可能性は確実にないから、わたしは脳内に小さく燻り始めた光をすぐに払拭して、浮かび上がったその人物を削除する。だけれど、どうしてもゼロの可能性を捨てきれない馬鹿なわたしは、あの人の削除をどこかで否定している。その馬鹿げた妄想のような夢を捨てきれないとしても、結局はどう考えても有り得ないから、二、三度だけ頭を左右に振り、その可能性をどうにか消去させようとした。
 わたしは少しの間腕を組み、考えた。それはマンションの住人を訪れた誰かが、部屋を間違えているのではないかということだった。一応自分が間違えているのではないかと辺りを見渡し、プレートを確認する。しかし、そのプレートに記入されている数字は間違いなくわたしの部屋で、どう見ても間違っていない。そして彼、修司であるという馬鹿げた妄想も有り得ない。ということはやはり、

「すみません、ちょっと……」

 小さく声を掛けたけれど、返答はない。起きる気配もない。少しだけ苛々した。疲れているのかもしれない。

「部屋間違えてんじゃないですか!?」

 だから今度は多少乱暴に、大きな声を出していた。

「んぁ?」

 どうやら寝惚けているようで、ぼんやりとして掠れた声が聞こえてくる。この声にも口調にも聞き覚えがあったけれど、わたしはそれを一瞬感じた胸の痛みと共に捨てた。

「そこに座られてると部屋に入れないんですけど!」
「……あー?」

 胸の痛みは声になったようで、また強めの口調を発してしまう。わたしはその人と同じ目線になるように座り、肩を軽く揺らして起こそうと試みた。その人の感触は、ついさっき自分の中で削除された彼と同じ体温のような気がして、一瞬感じた胸の痛みよりもっと大きな、体の奥の辺りから軋んだような音が、内部から響いてきた気がした。その後無数の針に突かれたみたいに痺れのような細かい痛みを全身に覚えて、中心からじわりじわりと熱くなっていく。虫に食われていくみたいな感覚、そう思った。
 こんなにもまだ、わたしは彼の感触も声も覚えている。腐りそうだよ修司。
 すると、寝惚けた声を上げていたその人は、揺すられていたおかげで覚醒出来たのか、俯いていた顔をようやく上げた。
 一瞬ふわりと、生温い風が吹き付けた気がする。

「遅いよ、お前」

 わたしは目を見開いて動けなくなった。息が止まる。何が起きているのか、どうなっているのか、一瞬だけ吹いた風は一体何だったのか。

「どこ行ってたの?」
「うっ……っわ!!」
「はぁ?」

 詰まった息は吐き出せたのか吸えたのか分からなくて出た声は、裏返っているのか上擦っているのかよく分からない。それよりもなぜ、どうしてこの人がここに居るの。
 頭の中は、何でどうしてを繰り返していて、真っ白と真っ黒が入り交じっている。目の前がちかちかと揺れていて、体に力が入らない。コンクリートに尻餅をついているのに、その感触も曖昧だった。
 顔を上げたその人は見間違うはずもない。わたしが会いたくて会いたくて堪らなかったあの人、修司だったからだ。
 何でどうして何でどうしてこの人がここに?繰り返されるそれと、上手く出来ない呼吸で、頭の中がおかしくなりそうだった。それだけしか考えられないわたしは尻餅をついたまま後退り、逸らすこともどうすることも出来ない彼の瞳を見詰めたままでいた。空いた口からは乾いた湿った空気が入り込み、唇を乾燥させ、麻痺させ、閉じることを許さない。わたしは今きっと、世界一間抜け面をしているに違いない。
 口内へ入り込む生温くじめじめした空気によって体は侵食されているはずなのに、今のわたしには、それさえ感じられなかった。


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