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□7days
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 外気温はおよそ30℃。暑さで靄が掛かったような生温い空気の中、木々達が風で揺れるのをぼんやりと眺めてはいた。けれど、その景色がわたしの視覚を刺激する事はなかった。たまたま入ったカフェの窓から見えるたくさんの車も、人々も、煙を吐いているような何だか玩具みたいに見える。
 わたしは何を頼んだっけ?そう思い軽く首を傾げたと同時に、「お待たせしましたぁ」という女性の甲高い声と共にアイスコーヒーが運ばれてくる。そこでわたしは、それを頼んだことをようやく思い出した。テーブルの上に置かれた瞬間、自然とグラスの中の氷がからりと揺れる。そうだった、アイスコーヒー、わたしは反芻した。軽く会釈してからそれに手を付けるけれど、やはりそれも玩具みたいで味も何もしなかった。
 陽炎みたいに揺れてぼんやりした玩具の世界で、わたしはたった一人で生きているみたい。
 今頃あの人は、高温の熱で焼かれているのだろう。肉も血も皮も焼き落とされ、骨もぼろぼろに崩れ、二度と開かない扉の向こう側で、最期の時を一人迎えている。今わたしが居る世界と、あの扉の向こう側は全く違う場所で、だったらどちらが本物なのだろうか。こっちが嘘っぱちなら向こう側が現実?いや違う。両方現実だ。嘘なんかじゃない。
 もうたくさんだった。もう二度と会えないあの人を思いながら啜り泣き、それから堰を切ったように咽び泣く。そんな昨日はもうたくさんだ。
 店内が騒ついている。四方八方から声が聞こえる。それらは雑音にしか今は聞こえないから、ぼんやりとしか聴覚を刺激しない。時計に目をやった。午後2時だった。火葬はこの時間からだと、誰かが言っていたことだけは、わたしの聴覚が敏感に反応したを覚えている。ああ、彼が、わたしの大事な、大切な彼が、
 焼かれていった。






 わたしと修司と出会ったのは大学のサークルだった。そこは少人数の、飲み会ばかりでまともな活動など何もしていない軽音サークルだった。部室にもほとんど人が集まることはない。自分の趣味の為に使っていた部室では、一人でギターを弾くことがほとんどだった。けれどもわたしは、その時間が好きだった。
 彼が来た時も勿論一人だったし、弾くことに集中していたから、引き戸が音を立てたことにも気付かなかった。その人が近付いてきたことも然り。直後、いきなり肩を叩かれ、わたしは何事かと反射的に見上げた。すると一人の男性が立っていて、一言、入部したいんですけど、と言う。わりと大きな声を上げていた彼は、特に愛想良くもなく、けれど自然と吸い付かれてしまうような、自分にとっては魅力的な男性だった。
 わたしは多分、彼に一目惚れをしていたのだろう。
 だから、入部したい、という言葉にも「はあ、どうぞ」と、力の抜けた声を出していたのだと思う。
 それからわたしと修司は、一緒に居ることが多かった。好きな音楽のジャンルは違っていたけれど、一緒に曲を作ったこともあった。彼はヒップホップやレゲエ、主に洋楽が好きで、わたしは専ら邦楽を好んでいたから見事に趣味は違っていたけれど、二つのジャンルをミックスさせた曲を一緒に作った。修司はパソコン、わたしはギター。取り込んで彼が編集して、時々スクラッチを掛けたり、わたしはパソコンには詳しくなかったから彼のやり方は全く分からなかったけれど、そうやって作っていた。他にも部室で作った曲を互いに歌ったり、カラオケに行ったりと、とにかくほぼ毎日一緒に過ごしていた。
 その中で、修司と付き合うようになるのは割と早くて、こんなに簡単に好きな人と付き合えるんだ、とぼんやり感じた。当時は好きな人と一緒に居ることは簡単だと、単純に考えていたのだ。本当に好きだと感じることはとても稀なことなのに。あんな風に感じることなんてあれから一度もなかったのだから。
 しかし、大学を卒業して就職をすると、お互いに仕事ばかりであまり会えなくなった。それからは済し崩し状態で別れることになる。その時は、もういいや、と思っていた。あんなに好きだったのに簡単に破綻するんだ、と、単純な虚しさで心が埋まった。それからのわたしは修司のことを忘れる時間が多くなり、他に付き合う人も出来た。けれどこれといって自分自身に良い変化もなく、ただ淡々と時間を過ごしては別れた。その都度あの虚しさが思い出され、修司と過ごした2年は、とても貴重な時間だったのだとようやく知った。一目惚れも彼の指先も口元にある小さなほくろだって堪らなく愛しかったことは、当たり前に目の前にあるようで本当は全て稀有な感情だったのだと、後になってから気付いたのだった。
 それから2ヶ月ほど経っただろうか、修司から連絡があった。元気か?暇なら飯でも、という誘いのメールに、わたしは単純に喜んだ。すぐに返信して、その約束が果たされることを心待ちにした。久々に会った修司は少し大人びていて、就職活動の時には似合わなかったスーツが、今はよく似合うようになっていた。付き合って2年、別れて2年、随分と時が経った。わたし達はもう24歳になる。
 それ以降、何度も食事に行ったり出掛けたりしていたけれど、お互いに「好きだ」とは言わなかった。体は重ねたのに、その一言だけは口に出さなかった。年齢のせいもあるのかもしれない。でもそれ以上に、一度別れたということが大きな枷になっていた。別れて気付いたこともたくさんあった。だけれど、だからこそ、怖かったのではないだろうか。当たり前みたいな好きな人と一緒に過ごすということは決して、ありふれていないんだ。わたしはそう思っていた。大切にしたかった。だから尚更言えなかった。
 言葉なんか要らない、目に見える明確なものがなくても、わたしの世界にも彼の世界にも、お互いが住んでいれば、その時はそれで良かった。それで通じ合っていると思っていた。
 そう思っていたのに、なぜ修司は、わたしが見渡せる世界から居なくなってしまったのだろう。ここにもどこにも他の世界を探しても居なくなってしまったのだろう死んでしまったのだろう。
 今は夏だ。初めて会った時もそうだった。夏に現れて、同じ季節に消えて行く。おかしいよ修司。カフェから出て歩き、歩道橋を歩いていると、夏独特の生温い風が吹き付けてくる。それは気分が悪くなりそうなのに、思い出すのはあの人の心地良い温もりだった。顔面に当たると欝陶しいのに、愛しい指先で触れられていたのを思い出すから払えないのもきっと同じだ。
 どうしてどうして、どうして一人で勝手に死んでしまうの、わたしを一人にするの、あんたがこの世界から居なくなると分かっていたのなら、言葉だって甘い雰囲気だって約束事だって全て全部与えたかった与えて欲しかった。もっともっと伝えたい言葉があった。
 涙は枯れた。実感も沸かない。「交通事故で即死だった」と言われても納得がいく訳がない。入道雲が並んで酷く清々しい夏空に、ばかやろー、と、わたしは小さく呟いてみた。けれど、それに対して誰からの返答はなかった。ある訳がなかった。
 修司は死んだ。
 こんなことになってしまうのなら言えば良かった。そればかりを考える。後悔だけが胸の奥の体全ての部位に刻み込まれ残る位なら、それだけが残るのなら、あの人に全てをぶち撒けてしまえば良かったのだ。
 けれどもう遅い。手遅れだ。届かない。どれだけ好きだと叫んでも、喉を枯らすほど泣いて喚いたとしても、彼はもう、どこを探して走り回ったとしても、居ないのだから。
 歩道橋から道路を見下ろし、車道を行き交う車をぼんやりと眺めながら、繰り返される同じような動きに、この街は人が一人死んでも何の変化もないのだと実感した。けれどそれはどの世界も一緒だ。変わるのは死んだ人間の周りだけ。わたしもその一人で、そのままわたしは一人ぼっちになる。
 もう帰ろう。どこに居たって一人なのは変わらない。わたしは歩き出し、自宅である古くも新しくもないマンションの前に辿り着いた。何も考えずぼんやりと歩いていても、自宅には普通に辿り着くらしい。わたしは一人自嘲気味に笑い、ふっと鼻から息を吐いた。
 鍵を取り出して、鍵穴にそれを差し込み左に回すと、そこはいつものように無機質で変化のない音を立てる。流れでドアを開けるその行為は、毎日と同じ動作のはずなのに、今日はいつまでも体と耳に残った気がした。それは、夏独特の生臭い香りも辺りの静寂も、見渡せば全てが毎日と同じはずなのに、まるで人の気配を感じなくさせる。この世界に存在しているのは、わたしたった一人なのではないか、と考えた。鍵を開けるその音と共に、わたしは言い難い孤独を感じる。部屋に入り照明のスイッチを押した音までもが耳に残るから、うるさいなあ、と小さく言って舌打ちをした。とにかく全ての音が大きく聞こえるのだった。それは孤独だとか静寂だとか、どれもこれもわたしは今一人ぼっちだという証明のようで、闇と空気に負けて押し潰されそうになる。
 わたしは一つ大きな息を吐いた。灯された室内に目を細め、ポストに入っていた郵便物を何気なく眺めた。それは当然の如くほとんどがダイレクトメールだった。いつもなら適当に目を通すこともなくさらりとごみ箱行きにしているのだけれど、なぜか今日はその中に紛れていた少しだけ厚手でグリーンの紙に目を向けてしまう。
 そこには短く一文、

「『あなたの望み叶えます』?何これ、気持ちわる……」

 こんな時に追い討ち?勘弁してよ、そう思いながらグリーンの紙をぐしゃぐしゃに丸めて結局はそれもごみ箱行きとなった。叩き付けるように放り込んでから、わたしは寝室へ向かう。喪服を脱いでパンストも脱いで、キャミソールと下着だけになって化粧も落とさずにベッドに身を投げた。
 大きな写真、花がたくさんの祭壇、啜り泣く友人の声、揺れる木々に生温い風、車道、車、変わらない人々、変わってしまったわたし、どこにも居ない修司。もう嫌だ早く眠ってしまいたい、と、それだけを思いながら布団に潜り込み、枕に顔を埋めた。
 あの人もわたしも好きだったビールを呷り好きな物を食べて笑って、そんな生活を送るのはもう少しだけ後にしよう。どうやっても今は無理だから、未だにあの人が死んだなんて信じられないのだから、もう少しだけ現実から目を背けて放って置いて欲しい。
 目を閉じても修司のことを考えてばかりで、それは頭に霞を掛けるから思い出も葬儀も一緒になって消えなくて、無性に喉が気持ち悪かった。早く眠りたい、そう思うのに、修司の死の実感が沸かなくて、全て納得がいかないから、何度寝返りを打ってもどうやっても、上手く眠れない。






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