苦楽

□泣くな笑うな斬ってやるからこっちへ来い
1ページ/1ページ

遠くに人の話す声があって、私の手の中には水を湛えた杯があった。胸の中には魔物が住んでいるのではないかというくらいにぜえぜえと何者かが呼吸をする音が響いている。


これは私の呼吸ではない。魔だ。もしくは私などには計りしれない神がかった意志かもしれない。


五十といくつかの時をかけて見てきたこの世界は今とても狭く目の前に広がっている。幼い時分には天下は己が駆けるには広すぎるのやも知れぬと思ったことがあったものだが、いざ天下というものの端に座して見ればたったこれだけ。恐らくこの部屋ほどあるかないかの手狭なものだった。


恐ろしく広く深い蒼天を支配することなど私にはできない。


私の天下は私の体から数歩ほどに先までに過ぎなかったと今更に気づく。


馬に跨れば視界は広がり、その分天は近くなる。それで見誤った。世界は広く深いと。


「深い……。深いが狭いのだ」


また胸の中で何かが喘いだ。外に在れば叩き斬ることも考えるが、さすがに内へは切り込めない。病は私を気遣う様にゆっくりと歩を進めている。


(もうすぐだ)


もうすぐ私は死ぬだろう。私の天下はたった一度だけの侵略を受け、征服した本人はそれに気づかずに滅びた。


もっと自惚れてくれと言えたらどんなにか幸せだったか。あの方はそもそも私にそんな服従を求めてさえいなかったが、それでも、などと思ってしまった。


「(張遼。どうした)」


酷い方だ。夢の中にあの日のままに現れなさる。


「(辛いか。なら俺が)」


振り上げた戟が蒼い空を裂いて落ちてきた。ああ、私はもう一度貴方に支配されるのだと思うとまた胸が騒いだ。荒い呼吸音しか聞こえなかったそこから確かに己の声がする。


「参ります」



泣くな笑うな斬ってやるからこっちへ来い



泣いても笑っても貴方に気にかけて貰えるならば私は喜んで心をかき乱すのでしょう。胸に住んでいた魔物がもしこの想いの化身なのだとしたら恋しいひとにするように愛でようぞ。成程、それならこの病が命を削るのは道理だ。私の恋はそうしないと、



2009.0529

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ