□お茶しませんか?
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高校最後の夏休みも間近となった日の放課後、俺は暫く触る機会が無くなる音楽室のグランドピアノを弾いていた。

ピアノならば家にも自分のフルコンはあったが何の気兼ねもせず音を出せると言う点で、ここは自宅よりも勝る環境だった。

この場所で誰に聞かせるでも無く弾くショパンが校内全ての生徒や教師達の耳へ届いているのだとしても気にならない。

いや「気にならなかった」と言うべきだろうか。

今は、この一年程の間に生じた心境変化で十指を鍵盤の上で動かしていながらも同時、自分はこうして室外からの雑多な物音達へと意識を向けている。

この学校でただ一人、俺のピアノを「設楽聖司」と言う名前を抜きで聞ける人間、その気忙しい足音が近付く時をこうして独り笑み待っていた。

「……来たか」

遠くフローリングの廊下を蹴るようにして駆けて来る音は程無く音楽室の前で止み、そっと扉を押し開いて室内へと気配を滑り込ませる。

弾んだ息は本人が思うよりもきっと殺し切れておらず、ガサゴソと何やら小さな雑音まで立ててもいた。

が、背中越しにすら感じられる真っ直ぐ向けられた視線と、純粋な聴衆として音に耳を傾けている様子だけはいつもと同じ様に伝わって来る。

そうして、第二主題の途中からラストのパッセージが終わってペダルに乗せていた俺の足が床に着くまでの間一言も発しなかった相手がパチパチと手を叩いた。

「お疲れ様です、設楽先輩」

と、それ以上はピアノの感想など口にもせず傍まで近付いて来てニッコリと笑む。

その顔を椅子に座ったまま振り向いた俺は愛想も無い返事をする。

「別に疲れてない。むしろ、おまえの方が『お疲れ様』なんじゃないのか?額に汗浮いてるぞ」

そう指摘した途端慌ててハンカチを取り出して顔に当てた後輩は「アハハ」と苦笑いした。

「結構走って来たんです。ここ、部室とは反対側にあるから」

彼女がマネージャーとして所属する柔道部は、最近漸く部室を貰えたとかで校舎端の小さなプレハブ小屋を使い活動しているのだと聞いた。

「……よく聞こえるものだな。そんな場所から態々走って来たのか?」

「はい」と然も当たり前に満面の笑顔で頷く後輩を見て思わず溜め息を吐く。

「本当に『お疲れ様』な奴だ……。で、部活の方は良いのか?後で俺が見当違いな文句を言われるのは御免だぞ」

それに対し、彼女は再び声を上げて笑う。

「アハハハ、大丈夫ですよ。丁度私が飲み物を買いに行って戻った所だったから、今は不二山くんも新名くんも部室で休憩中です」

「だから、ちゃんと二人の許可も貰って来てます」と得意気に両手を腰へ当てる。

「ふーん……なら構わないが、廊下を走るとウルサイ連中から要らない説教を食らうって事もいい加減忘れるなよ」

毎度の注意をする俺に「はい、気を付けます」と頷いた後で悪びれもしない後輩が嬉々として言った。

「じゃあ、先輩。早速お茶しませんか?」

手にしていたビニール袋の中から取り上げた飲み物をこちらへ向けて差し出し、彼女はまたニッコリと笑んだ。

「買って来たばっかりですから冷えてますよ。はい、どうぞ」

有無を言わさず渡された容器は本当にヒンヤリとした温度を掌へ伝え、沢山の滴で指の先まで濡らす。

「……ラムネ?おまえ、どこまで買い物に行って来たんだ?」

どう考えても校内で売られているとは思えない物をもう一本袋から取り出す後輩は下手なウィンクを返した。

「内緒です。でもこれ、新名くんのリクエストだったんですよ。どうしても今日の休憩にはラムネを飲みたいって言って譲らないから不二山くんも仕方ないって。だから今日だけの特別なんです」

「ついでに私と先輩の分も買って来ちゃいましたけどね」と透明なガラス瓶を嬉しそうに掲げつつピアノの一番近くの席へ腰掛ける。

俺も暫くの間手にしたラムネをじぃと見下ろしていた。

「特別、……ね」

そうポツリと呟いてから後輩の顔を見て苦笑う。

「でも普通ラムネでお茶するって言い方は変じゃないか?まぁ、大概おまえの言う事は変だけどな」

態とからかえば直ぐにも頬を膨らませて「もう」と溢す。

「せっかく買って来たのに酷いなぁ。けど先輩、喫茶店なんかへ行く時もお茶するって普通に言いますよね?それと同じようなものなんだから全然変じゃないですよ。と言うか、絶対変じゃありませんって」

などと屁理屈で答えた彼女は、その手に持った瓶の上部に掛かるシールを手馴れた様子で破き、リング状のプラスチックも外して行く。

そして天辺が丸い形をした小さな角帽のようなものを瓶の先へ乗せ、ふと顔を上げたかと思うとこちらをじっと見た。

「飲まないんですか?先輩」

問い掛けで一瞬ハッとした俺は視線を空中に泳がせる。

「そう言う……訳じゃない。飲まないとか、別に思ってない。ただ……」

飲んだ事が無いから戸惑っているとは口に出来ず居ると、何かを察した風の後輩が自分のラムネ瓶を何故か一つ後ろの机に置いて立ち上がった。

「分かった。先輩の指が怪我したら危ないですもんね。任せて下さい、私が開けますから」

言って俺の目の前まで来るなり「貸して下さい」と掌を広げる。

瞬間、返事には困ったが瓶だけは素直に差し出すと彼女がフワリと微笑む。

「ちょっとだけ待って下さいね」

受け取ったラムネを持った後輩は先程まで居た机の上にハンカチを畳んだままに敷き、そこへガラスの容器を乗せた。

そうしてさっきと同じ手際でシールとリングを外し、残った小さな丸い角帽を瓶の口へと宛がう。

それに添えられた彼女の両手が瓶の真上で重なる。

「せーのっ」

掛け声と共にラムネ瓶へ伸し掛かった後輩の掌の下、プシュと言う炭酸ガスの抜ける音が聞こえた。

と同時に透明なガラスの中を小さな泡達が幾つも駆け上がり、彼女は意外な器用さで素早く容器を斜めに傾ける。

「こうすると中身が溢れないんです」と言った通り、ビー玉の封が取れた口先で空気に触れた炭酸の泡は勢いを無くしてしまう。

それら全てが収まったと思える十数秒の後、後輩は満足げに笑んで瓶を掲げた。

「ほら、バッチリだったでしょ」

一連の動作にほんの少しばかり俺が驚いていると、彼女は口の開いたラムネを再び差し出す。

「はい、設楽先輩。冷たい内にどうぞ」

その手から瓶を受け取り、短く「ああ」とだけ返事をする。

丸く開いた容器の口からは微かな炭酸の音が漏れ聞こえ、自分には嗅ぎ慣れない不思議な甘い香りも漂って来た。

じっとラムネ瓶と睨めっこする俺の傍らでは後輩が自分の分も開けに入っている。

プシュと言う音が二度目に聞こえ、瓶を手早く傾けた数秒後には彼女がニンマリと笑う。

「こっちも成功。じゃあ、私も戴きま〜す」

言葉と共にラムネ瓶を傾けてゴクゴクと何口か飲み込み、プハッと息を吐き出す。

「ああ〜、やっぱり夏はラムネですよねぇ。これを飲むと夏が来たって感じがします」

酷く幸せそうな笑みを浮かべて言った後輩の顔を俺はマジマジと見つめる。

「そうなのか?ラムネなんて一年中出回ってる物なんじゃないのか?どうして、それが夏を感じる味なんだ?」

一気に問うと、彼女はキョトンと目を丸くした。

「設楽先輩?」と俺を呼び、何秒かの間黙り込む。

その後でポツリとこう言った。

「もしかして、先輩ってラムネを飲んだ事無いんですか?」

まんま図星を言い当てられた気恥ずかしさと腹立たしさでムッと顔を顰める。

「悪かったな、飲んだ事が無くて。だが知識としてはラムネがどんな物か位知ってるんだ、何の問題も無い。現に俺はこれを見て直ぐにラムネだと分かった。違うか?」

世間知らずと思われたく無くて理屈を捏ねると、後輩は興味深げにじぃとこちらを見る。

「違いませんけど、先輩の知ってるラムネの知識って何ですか?そっちの方が気になります」

と、あからさまな催促の眼差しを向ける相手を前にして、まだ口もつけていないガラス瓶を持ったまま俺は溜め息を一つ吐く。

「……だから、ラムネは水に砂糖なんかの糖分を加えてレモンやライムで香りを付けた炭酸飲料だろ。名前の由来は幕末に初めて瓶入りの炭酸水を持ち込んだイギリスのレモネードが訛ったものらしいけど、元々向こうで作られていた炭酸水はレモンで香り付けしただけで甘味料は入っていなかったそうだ。だから本来のレモネードとは別物って事になる訳だが、その時に伝わった独特の形をしたガラス瓶を模して日本で作られた炭酸飲料こそが今俺達の手にしているラムネになるって訳だ」

製造過程まで話してやろうかとも思ったが、先に彼女からの質問が飛んで来る。

「イギリスって事は、やっぱり本場のレモネードを先輩は飲んだ事があるんですか?」

俺が昔からヨーロッパに足を運んでいると知っていた後輩は興味津々と見つめながらに問う。

「ああ。もちろんあるが、きっとその飲み物とこの日本のラムネの味は別物だろうと容易に想像が出来るな。同じ炭酸飲料でも、どちらかと言えばイギリスのレモネードは日本で言うサイダーに近い。サイダーとラムネは別物と区別するこの国ではやはり違う飲み物って事になるだろう」

そんな回答に「へぇ」と相槌を打ってから彼女はニコリと笑う。

「じゃあ実際に飲んでの感想も聞かせて下さい。想像だけじゃなくて、日本の夏の風物詩の味を先輩がどう感じるか知りたいです」

風物詩と言えるのかどうかの疑問は残ったが、確かにずっと手にしたままでいる瓶の冷気が無くなる前に飲んだ方が良さそうだとは思い、早速に瓶を傾ける。

「じゃ……戴きます」

一応の礼儀を示すと後輩は小さく笑んで「どうぞ召し上がれ」と頷いた。

静かに口元へ運び、コクリと一口含むと想像よりもキツめの炭酸が喉を潤す。

そうした事で初めて今、自分が7月の夏日の暑さで多少なりの渇きを覚えていたのだと気付いた。

英国で言うならば丁度午後の紅茶の時間でもあったし、お茶をするには良い頃合いだ。

「紅茶代わりのラムネ、か……やっぱり不思議だな」

呟いてまた一口を飲む俺へ、小首を傾げた彼女が問う。

「設楽先輩のお口には合いませんでしたか?普通に紅茶とか烏龍茶の方が良かったです?」

後輩なりに気を遣って尋ねたのだろう言葉に「いや」と頭を振り笑い返す。

「おまえの言う夏の味ってのがどんなものかは分かった。それだけでも今日、これを飲む価値はあったと思っている」

その返事で益々彼女は首を傾げ、困惑した表情になった。

「えっと、それって先輩もラムネの味を気に入ってくれたって事ですか?それとも今日だけでもう沢山って事?」

どちらかと言えば気に入った方の味なのだが、答えは態とはぐらかしてラムネを口にする。

コクコクと何口か続けて冷たく清々しい炭酸水を自分の体へと流し込んだ。

それから一言、未だに俺の顔を上目遣いで見つめている後輩へこう言った。

「飲まないのか、ラムネ」

そう促すと彼女は「あ、そうですね」と単純にも答えてガラスの瓶を両手に持ち、勢い結構な量をゴクゴクと飲む。

プハッと息を吐いて目を細めた顔は、またも幸せそうな微笑みを浮かべる。

「ん〜、美味しい。やっぱ夏にはラムネが一番だわ」

そんな風に言って笑う彼女を見られるのならば、こんなお茶会も悪くは無いと思った。

「けど、やっぱりラムネでお茶するって言い方は変だろ」

再びに思い出して突っ込んだ俺も気付けば声を出して笑っていた。

カランと、涼やかなビー玉の音を鳴らしたラムネ瓶と一緒になって。



【END】
 

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