□こんなにも
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他愛ない事を他愛ないままに、あいつは俺に語り掛ける。
今日クラスの授業中こんな面白い事があったとか、昨日友達とこんな話をして盛り上がったとか、休日家族とこんな所へ出掛けて楽しかったとか。
正直、それらをただ聞かされる側の俺としては何一つ面白可笑しい事など無い。
無いが、別段つまらないとも思わない自分をその度不思議に感じたりもしていた。
そもそも、この俺に対してそんな話をして来る人間なんて同級生の紺野か一つ後輩のそいつ位に限られてはいたけれど、紺野とあいつとではまた何かが違っていた。
今日の放課後にも図書館で暇を潰していると紺野が現れ当然のように隣へ座るなり「夏だよなぁ」とか唐突に言って来るから、俺は「ああ、暑いから当たり前だな」と適当な相槌を返した。
それを聞いて何故か小さく笑った顔が「設楽にとっての夏は暑いってだけなのか?」などと今度は問い掛けて来る。
途端、返事そのものが面倒になった俺は無言で眼鏡の生徒会長を睨みつけた。
言外に「他にあるのか?」との意味も込めたつもりだった視線を読み取ったらしい相手は笑みを浮かべたままで「確かに暑くなければ夏とは言えないんだけどさ」と頷く。
それから、この暑さの中でも屋外練習をしているらしい運動部の掛け声が響く窓の向こうを眺めて「けど、他にもあるよ。夏の良さってものは」とポツリ呟いた。
その言葉に釣られて「なんだよ、他にもって」と尋ねてしまった俺をクルリと振り返るなり紺野は嬉々として「夏の良さ」とやらを語り始める。
早起きしてラジオ体操をする爽やかさについてとか、夕暮れ時の海辺を散歩する心地好さについてとか、夜空を彩る夏の星座を見上げる感動についてとか。
それはもう熱心に訴え掛ける相手に付き合う辛抱強さを元々持ち合わせていなかった自分は結局最後までなど聞いてやらずに「もう帰る」と話の腰を折って席を立つ。
「おい、設楽」と彼の声から呼び止められても俺は振り向きもせず「お先」とだけ言って図書館を出る。
そして迎えの運転手へ電話を入れようとポケットから携帯を取り出した丁度、今度は別の声から名前を呼ばれた。
「設楽先輩」と、この頃ではすっかり聞き慣れたそれの主を階段の踊り場に立ち止まって振り返ると、何やら嬉しそうに駆け下りて来る小柄な後輩の姿が見えた。
「なんだ、おまえ。まだ学校に居たのか」
無愛想に言った俺の傍らへ追い付いたそいつは「バイトが今日は入ってない日なんです」とニコニコしながら答える。
その後で俺の手元の携帯へ目を向け、直ぐにも察した風で「これからお迎えを呼ぶんですか?」と聞く。
だから簡潔に「ああ」と頷き返すと後輩は透かさず「ねぇ、先輩。今日は途中まで私と一緒に帰りませんか?」と小首を傾げながら人の顔を窺って来る。
俺は「この暑い中をわざわざおまえと一緒に歩けって言うのか?」と如何にも嫌味っぽく答えはしたが内心では然程嫌でも無く、更に後輩が「健康の為にも時々は自分の足で歩かなきゃ、ね?」と満面の笑顔を向けるので手にした携帯は溜め息交じりでポケットへと仕舞った。
そうして如何にも恩着せがましく「仕方ない、本当に途中までだぞ」と観念したように言ってみせると素直に喜んだ後輩は「じゃあ、早く行きましょ」と俺の袖をグイグイ引っ張って階下の下駄箱に向かう。
「そんなに急かすなよ」と口では答えた自分も何でなのか自然口許は笑っていた。
二人並んで校門を出て海岸線を暫く歩いて行く道すがら、さっき図書館で紺野に捕まった時の事を話すと後輩は面白そうに人の顔を見上げて来る。
「先輩達は本当に仲が良いんですね」などと気色が悪い感想を述べた相手を俺はキッと睨む。
「おまえな、どうしたらそんな結論になるんだよ。俺はあいつと話すとイラつく事の方が断然多いんだぞ?今日だってそうだ。夏の良さなんてものを俺に語られたって今更この体質は暑さを心地好く感じたりする訳がないのに、延々と夏についてのあれこれを一方的に聞かされて本当にイライラして堪えられなかった。何だよ、したり顔で『設楽にとっての夏は暑いってだけなのか?』って。他に何があるんだ?夏は暑いよ、冬が寒いってのと同じで暑いとか寒いって言う体感的苦痛は些末な季節感とか呼ばれる美点なんてものを差し引きゼロにするんだ。いや、むしろマイナスな位だろ。違うか?」
何に対しての苛立ちか愚痴か自分でも分からないまま捲し立てた俺の言葉に後輩は微かな苦笑いを浮かべた。
その表情がまたもや不満で「何だよ、おまえも紺野と同じなのか?夏は暑いだけじゃないとか俺に熱弁しようって言うのか?」とムッスリとしながら問うと、一瞬そいつは困ったようにアハハと笑って目線を海の方へと向ける。
それから何秒か黙り込み、次に口を開いた時後輩は最初に「ごめんなさい」と謝った。
「設楽先輩に同意したいのは山々なんですけど、この件に関してはわたしも紺野先輩と同じ気持ちです。夏はね、先輩……暑いってだけじゃありませんよ」
西日を反射してキラキラと輝く海岸線を眩しげに両目を細めて見ていたあいつは微笑む。
「こんな風に暑いから、逆にその良さが引き立つものが夏には沢山あると思うんです。たとえば海もそう、夏の暑さがあるからこそ他の季節とは違った海での遊びが色々出来ます。暑いから涼む為に、そして寧ろ暑さを楽しむ為に夏の海には毎年大勢の人が来るんだと思うんです」
遠くでジェットスキーをする幾人かの姿や大小のヨットも幾つか浮かぶ海の上を眺めながら話す横顔を俺は隣からじっと見下ろす。
その視線に気付いた様子でこちらを振り返った後輩がハタとした表情で更に言葉を続ける。
「あ。えっと、海で遊ぶ他にも暑い夏だから楽しめるものって結構ホントにいっぱいありますよ。かき氷とかスイカとか素麺とか、あとラムネとかトコロテンとか冷やし中華とか美味しいものだって夏には沢山あるとわたしは思うんです」
俺が何か文句でも言うと思ったのか、慌てたように海の話題から離れて後輩が一気に並べ上げた単語を聞いて思わず吹き出してしまう。
「おまえ、ホント花より団子だな」
そいつらしいと思える発言にウケて笑っている俺を横から見上げた本人は「えー、そんな事ないですよぉ」と言って少し膨れる。
「あるだろ」「ないです」と互いに言い返し合い、暫く立ち止まっていた俺達の足は再び歩き出し始めて間も無く着く分かれ道までをゆっくりと目指す。
このまま後輩の家まで送って行っても構わないのに言い出すタイミングが無いままで居ると、不意に「あ、そうだ」と呟いた顔が俺を見て笑む。
「設楽先輩。わたしね、ノウゼンカズラが好きなんです」
俺は「ノウゼンカズラ?」と一瞬何の話かピンと来ないで居たが、後輩は「夏の良さについてですよ」と一旦は終わったと思っていた会話の事を指した。
「うちの近所のお庭に今、ノウゼンカズラが満開なんです。あの鮮やかなオレンジ色を見るとわたし、夏だなぁって思うんですよね。他にも沢山夏に咲く色鮮やかな花はあるのに、あの花が一番わたしに感じさせてくれるんです。今年もまた夏が来たんだなぁって」
そんな話をするだけした後輩は分かれ道に着いた途端少しの余韻すら与えず「じゃ、ここで」と手を振って先に駆け出して行く。
曲がり角で一人取り残された俺は憮然と呟いた。
「それって……どんな花だったっけ」
名前は聞いた覚えがあるがはっきりと花の姿までは思い浮かべる事が出来ずにモヤモヤとした気分が後輩の背中も見えなくなった後に残る。
兎も角迎えの車を呼んで乗り込んだ後部座席でも俺はあいつの言葉を思い出していた。
「オレンジ色の花……か」
つい溢した独り言に運転手が「何かおっしゃいましたか、坊ちゃま」と尋ねて来る。
チラリとバックミラー越しに年上の気の置けない相手の顔を見て返すべき言葉を束の間選ぶ。
「なぁ、ノウゼンカズラって花知ってるか?」
結局直球な問いと言う形で返事をした俺へ、彼は無用な詮索も入れずに「ええ、分かりますよ。橙色をした今の季節の庭花ですよね」と答えた。
あいつが話したのと変わらない内容を運転手の口からも聞いて何故か尚更に自分の中でモヤモヤが増した気がした。
「俺は……分からない。いや、分かる。名前は分かってるんだ。だけど、どんな花なのかまではちゃんと思い出せない……」
ボソボソと溢した俺の声をちゃんと聞き取ってくれた相手はハンドルを握ったままで微笑み「ならば、坊ちゃま。少しだけ寄り道してそれを見に行ってみましょうか」と提案をして来る。
「寄り道?どこへ?」
そう尋ね返す俺に「直ぐ着きますよ」と答えた彼が向かったのは自宅の近所にある花屋敷だった。
「ここに咲いているのか?ノウゼンカズラが」
正面の門前から覗ける範囲の庭にはそれらしい花が見当たらなくて車の窓越しでキョロキョロとしていた俺に運転手は「ええ」と頷き、「ちょっと裏の方まで回りますね」と言う。
言葉の通りに車を少し細い道へと進ませ花屋敷の塀沿いをぐるりと回った彼が元々ゆっくりとしたスピードを更に落として「ほら、あれですよ。坊ちゃま」と指差す。
その先には本当に目にも鮮やかなオレンジ色をたわわと咲かせた緑の蔓と葉が塀から溢れ落ちるようにして伸び、そこから散って地面に広がる花弁までがまだ色褪せずに咲いているかに見えた。
どこかしら南国的な雰囲気を持つその花は塀の向こう側の高い椰子の木にも絡まりながら一層夏の空色に映えている。
「そうか……あれが、あいつの言ってた花だったのか」
漸く名前と花そのものが一致した俺は我知らず呟いていた。
「あの花が咲く今だから、夏……なんだな」
そう言葉にすると先程まで自分の中にあったモヤモヤとしたものがスゥと消えて無くなった。
「もう少し近くで見たい、降りても良いか?」と既に自ら車のドアを開き掛ける俺に運転手は「構いませんが、出来れば花自体には触れないようになさって下さい。あれは一応毒性もある種類なので、花を触った手で目など擦ると失明するとも昔は言われたものですから」と注意を促す。
それに頷いて一歩エアコンの効いた車内から外に出れば西日に傾いたとは言え未だ残る日差しの暑さが全身を容赦無く包む。
けれども、微かに五片の花冠を揺らす海風が俺の汗ばんだ肌もサラリと撫でて通り過ぎて行く。
「やっぱり、夏は暑いな」
ポツリと呟いて笑う。
「でも……夏だからこそ、おまえは咲くんだろ?」
目の前でユラリと風に頷く花達に語り掛けた今、俺は気付く。
あいつの話す他愛ない言葉の一つをやっと理解出来た事に、こんなにも自分は満足していた。
「ノウゼンカズラ、か」
改めて俺が口にした花の名に応えてか、車のドアの前で控えて立っていた彼が「そう言えば、昔読んだ北原白秋に凌霄花の歌がありましたよ。確か、火のごとや……」
「火のごとや夏は木高く咲きのぼる、のうぜんかづらありと思はむ」
その言葉の羅列が持つ意味などは本当にどうでも良くて、ただ俺は次にあいつに会ったらそれを語って聞かせようと思い何度か詩を復唱する。
「……花より団子は、訂正して置かなきゃな」
まぁ気が向いたらだけど、と内心で付け足して踵を返す。
そんな俺が運転手の開いたドアから座席へと乗り込むと、オレンジ色の花達がユラユラと手を振っていた。
【END】