CAIN

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 一方、自分は哲史にキスシーンを見られた事への羞恥心と藍斗を傷付けてしまった事への罪悪感に、目から大粒の涙を流していた。

 藍斗が、あんな態度に出たのは自分が蒔いた種だというのに……。それなのに自分は彼をセトに任せて、この場に残って泣いているだけ……。

 それが許せなかった。

 前は藍斗を傷付けたら直ぐに追い掛けて謝るなり、何かするなりしたのに今はしない。

 昔も今も、何も変わらず藍斗だけを考えて生きていると思ったのに。自分は、この5年で変わってしまったのだと実感した。

 そう考えると胸が張り裂ける程、悲しい。

 家を出る時間が迫っているというのに、自分は背広姿で両手で涙を拭いながら泣いていた。

「全、泣くと俺、悲しい。」

「うっ……ふっ。」

 泣いている自分に哲史が頭を撫でて落ち着かせてくれた。

 キスシーンを見て尚も自分を気遣ってくれる彼の優しさに甘えて、自分は後ろを向くと彼の胸で泣いた。

 すると哲史が、自分の顎を左手で持ち上げると涙を舐め取とり、じっと自分の目を見詰めて軽くキスまでしてきた。

「!!」

「涙、止まった。……キスした、謝る。俺、全、嫌がる事、したくない。」

「ありがとう、哲史。……君は優しいんだね。……早く行かないと。」

 哲史の予想もしない行動に自分は驚き、涙も止まった。

 自分の涙が止まった事に哲史は喜んだ表情を浮かべ、自分の頬を優しく沿うように撫でると、言葉を紡いだ。

 彼の優しさが嬉しくて、自分は感動して薄く涙を浮かべて言葉を返した。

 29分というぎりぎりの時間に自分達はバス停に集合した。

 外は雲もなく晴れ晴れとした良い天気だ。

 こんなに清々しい空の下にいるというのに自分達は物凄く気まずい雰囲気を醸し出し、そのせいで重い空気が自分達の周りを漂っていた。

 そんな時……。

「わん!!」

 藍斗の持っているカバンからセトの鳴き声がした。

 自分と哲史は、藍斗のカバンと藍斗を交互に見た。

 カバンは、もごもごと動き、明らかに何か生き物が入っているのが分かる。

 今、生き物というと仔犬のセトしか考えられなかった。

 自分は藍斗の目をじっと見た。彼は後ろめたい事があると目を逸らすからだ。

 案の定、藍斗は自分の目から逸らした。自分は溜め息を吐いて口を開いた。

「藍斗、どうして、セトを連れて来たの?」

「だって、可哀相だろ。……一人で留守番なんて。」

 藍斗の動物愛護の性格上、誰も居ない所に生き物を置き去りにする事など、この世が無くなる危機に直面したとしてもできないだろう。

 今から部屋に置きに戻る時間など全く無く、3人で話し合った結果、結局、セトを連れて行く事にした。

 正直な話、藍斗がセトを連れて来ている事に感謝するのと同時にセトに感謝した。彼が居なかったら自分達は、あのまま気まずい雰囲気でいただろう。

 そんな会話をしている間に市営バスが来た。

 自分達は中央にある乗車口からバスに乗る。

 バスの中は満員だった。その殆どが学生達で、友人と話したり、音楽を聴いていたり、携帯でメールを打ったりと、それぞれ思い思いの方法で暇な時間を過ごしている。

 バスが学生達で混雑するのは駅の近くに大学があるからだった。その為この時間は、通学ラッシュになり、とても混雑するのである。

 犇めき合う人の中で自分達はバランスを保つ事に一苦労だった。

 こういう状態での5分は、かなり長い。

 自分と哲史は倒れないように、藍斗は、それプラス、セトを潰されないようにしなければならない。あまりの人数の多さに捕まる場所が全くないからだ。

 そのせいもあって、何度も人が藍斗のカバンにぶつかってきたというのに、セトは全く吠えず、動きもしなかった。自分は、そんな彼に感心した。

 犬なのに犬ではないような、そんな感じだ。

「それにしても、多いな。」

 バスの揺れを必死に堪え、セトの入ったカバンを抱きながら藍斗は口を開いた。

「あぁ、うん……。」

 藍斗の言葉に生返事をしながら自分は、バスの後ろに立っている女子大生の方を見ていた。

 動きが妙なのだ。

 その場から逃げているような、動きの取れない所で必死に離れようとしているような、そんな動きなのだ。明らかに、それはバスに揺られて動いている、それではない。

「全……どうかした、気分、悪い?」

「そんな事ないよ。……すいません、通して下さい。」

 哲史が心配して訊いてくるのを余所に自分は女子大生の方に足を進めた。

 このバスは、駅前が終点なので奥に行こうと降り過ごすという事はない。乗客に白い目や舌打ちされるのを我慢しながら一番奥に居る女子大生の近くまで辿り着いた。

 彼女は尚も逃げるような動きをし、表情は恥ずかしそうに赤くしていた。

 自分は彼女の後ろに立っている真面目一徹という感じの会社員に目を向ける。

 仕切りに下を見ている。

 そして、横目で彼の隣にいる軟弱そうな感じの男子学生を見ながら何かを言おうと口を開いては、閉じる動作を繰り返していた。

 自分は会社員の後ろを通り抜け男子学生の後ろに立つと、彼の肩を叩き、それと同時に女子大生のスカートの中に入っている右手を掴んだ。

「君、それ犯罪だって知ってるよね?」

「何だよ、言い掛かりだろ!!俺は痴漢なんてしてねぇぞ!!」

「私、見ました。彼がしているの。」

 自分の行動に驚いたのか、男子学生はあたふたしながら言ってもいない犯罪名を口にして無実を訴えた。

 しかし会社員が自分の行動を見て、漸く言う決心したのか、勇気を出して彼の犯罪行為の裏付けをしてくれた。

 周りの乗客がざわざわし始める。それと同時に男子学生はその場から逃げたいのか、そわそわしていた。

 乗車口付近に立っている藍斗達もこちらを驚いた表情で見ている。

「駅に着いたら交番に行こうね。……それから、この人に謝らなきゃ。」

「…………。」

 男子学生は黙っていた。罪が暴かれ、これからの人生に多大な影響を及ぼしていくのが怖いのだろう。

 それに対して自分は何も言わなかった。

 罪を犯したのは、彼自身なのだから自分が何か言って慰めたところで、今の彼に届きはしない。逆切れされるのが落ちだ。

 そんな事を考えている間にバスは駅の停留所に着いた。

 乗客が、ちらっ、ちらっと、こちらを見ながらお金を払いバスを降りて行く中、自分と被害者、加害者そして目撃者と藍斗達が残った。

 バスの運転手は、まさか自身の運転するバスで痴漢事件が発生するとは思ってもおらず、どうして良いものか困っていた。

「あっ、貴方は会社に向かわれて良いですよ。仕事があるのでしょう?」

「あっ、はい。でわ、失礼します。」

 目撃者である会社員の男性には会社に向かってもらった。この時間だ。彼も仕事ヘ行く時間が押しているだろう。

 そう思ったのも彼が痴漢行為を眼前で目撃しておきながら、何も言わなかったからだ。

 彼は正義のヒーローになる事よりも今、自分が置かれている立場を優先したのである。この、ご時世そんな考えを持った人も少なくはない事を自分は仕事上、良く知っていた。

 まったく、嘆かわしい限りである。

 最近の日本人は、自分本意に考える人間が多くなっているせいか、そういう人間が多かった。

 自分達は、バスから降りると駅の近くにある交番に向かった。

 藍斗達には先に駅前に行ってもらうよう言ったが、付いてくると聞かないので、結局、大人数で交番へ行く事になった。

 交番は建ってから十数年が経つというのに未だに新築のように綺麗で中も清掃が行き届いていた。

 中では落ち着いた感じの警官と元気が有り余っているという感じの警官が机に着いて書類作成の仕事をしていた。

 自分が中に入ると落ち着いた感じの警官が愛想の良い表情で、こちらを見た。

 こういう態度は見ていて気持ちの良い感じがする。この分だと、きっと地域住民と仲の良い関係を築けていると自分は思った。

「すいません、彼が痴漢行為を働いたんですけど。」

「痴漢ですか!?……では、こちらで調書を取るので、どうぞ。」

「はい。」

 自分が、すっかり大人しくなった加害者を警官達の方に近付けると、落ち着いた表情の警官の顔に驚きの色が注した。

 彼がそんな表情を浮かべるという事は、此処はそれだけ平和という事なのだろうか。

 加害者と被害者は奥の部屋ヘと落ち着いた表情の警官に連れて行かれ自分達は、もう一人の警官と入口付近に立っていた。

「それにしても、痴漢を捕まえるなんて凄いですねぇ。」

「仕事ですから当たり前ですよ。……俺、刑事なんで。今日は非番なんですけど。」

 尊敬の眼差しとも言える目をして警官は自分を見てきた。

 しかし自分は、そのような目を向けられて良い人間ではない。自分は刑事なのだ。

 刑事を含む警察官は人を助ける事が仕事なのだから褒められるべきではない。困っている市民を救う、それが当たり前の仕事なのだから。

 自分が平然と言うと警官は子供のような、あどけない笑顔を向けてきて口を開いた。

「刑事でも非番の時に犯罪者を捕まえられるのは凄いですよ!!」

「そういうものですか?」

「全、そろそろ行かねぇとまずくねぇ?」

「えっ、もう、そんな時間!?……じゃぁ、俺は、これで失礼します。」

 警官の言葉に心良くしてしまった自分は、きっと藍斗が止めなかったら話に花を咲かせ時間も忘れて話込んでいただろう。

 が、藍斗に言われ腕時計を見ると既に8時50分になっていた。

 自分達は警官に頭を下げると急いで交番を出て行った。

 交番を離れる時、誰かに呼び止められた気もしたが、待ち合わせ時間が迫っているだけに後ろを振り向かず先を急いだ。

 それから駅に着いて、どれくらいの時間が経っただろうか。駅の入口付近で自分達は呆然としていた。

 時計は10時を過ぎているというのに迎えの人らしい人物が現れないのだ。

 駅も通勤、通学ラッシュを抜け、静けさを取り戻していた。

 そのせいか自分達の存在が異様に目立っている気がする。

「それにしても、さっきの全、凄かったな!!」

「えっ、何が?」

 カバンからセトを出し、抱えている藍斗が目を輝かせながら言ってきた。

 始め自分は、彼が何を言っているのか分からず首を傾げる。

 そんな自分を見ながら藍斗は、ばしばしと背中を叩いて、その後は頭をくしゃくしゃと髪を乱すように撫でた。

「何がって痴漢を捕まえただろ!あんなの普通の奴じゃ気付かねぇよ。」

「あぁ、うん。ちょっと気になって近付いて行ったら痴漢だったってだけだよ。」

 藍斗が乱した髪を手で整えながら、自分は藍斗の思い違いを正そうと口を開いた。

 すると今度は、哲史が空を見ながら悟ったように言う。

「そんな事、ない。全、優しいから弱い人、見つけられる。人、助けられる。とっても良い、事。」

 藍斗と哲史は、これ以上ないくらいに褒めちぎってきた。特に哲史の言葉は嬉しくて頬を赤くしながら首を振って取り敢えず否定はしてみるが、全く説得力はなかった。

 自分が、きちんと警官らしく市民を助ける事ができている。

 それを証明してくれるように2人が褒めてくれるのは、とても嬉しかった。

 こういう時、警官をしていて良かったと思えた。

 自分達が会話をしていると、黒みの掛かった赤い髪色に短めの髪型をして両耳に5つのピアスを付けた成年が近付いて来た。

「あんた等が、新しく入るメンバーかいな?」

「メンバーって、何のですか?」

「あり?あんたらやない?おっかしいなぁ。此処に来る筈ねんけどぉ。……ちょっと、確認するさかい待っとてくれへん?」

「はっ?……はぁ。」

 成年の言葉に自分は逆に質問した。

 もし、此処でCAINの名前を出して違ってでもしたら困るからだ。
 
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