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□ 幻と記憶とパンとシチュー
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―――人間が思い出に浸っている時の脳の状態は、幻を見ている時と同じなんです。つまり、記憶と幻に大差はないのですよ。
先程の男の発言を頭の中で反芻していたら、右手に鈍い痛みを感じた。見ると人差し指から血が垂れている。どうやら無意識に親指の爪で傷付けていたらしい。私は男に聞こえないように舌を鳴らす。
血走った彼女の視線から逃れるように、私は父親になる予定だった男の血が染み込んだ床の上に目を落とし、散らばった筆記用具の中からカッターナイフを掴む。そして思い切り自分の腹部へそれを刺す。深く、さらに、深く。痛みを感じるよりも早く、思考が追いつくよりも早く、無心で体内へと招き入れる。―そこで、意識を手放す。
シチューやパンを食べなくても、こんなにも鮮やかに蘇るこの記憶も、幻と同じと言うのだろうか。
視線を上げる。
チロチロと動く男の舌が挑発的で、私は聞こえるように舌を鳴らす。
「シチューはいかがですか。パンをどうぞ」
舌打ちなど聞こえなかったかのように、男は繰り返す。或いは本当に聞こえなかったのかもしれない。
人差し指から流れた血が、ぽとり、と床に落ちた音がやけに耳に残った。
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2010/05/31
それは幻か、記憶か。