【桜色ファンクション】

□第一話:「彼女に到るまでの距離」
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 それは六月を前にした或る夜だった。
 寝静まる空間が席巻する空間に小さな影が大きく駆けている。
「残念だけど……この辺りに来れば勝ちなの」
『彼女』、円城真樹(えんじょう まき)は勝利に満ちた声とは裏腹に表情は木彫りの面の様に静謐だった。
 フレームレスの眼鏡を右手の中指で正すと小さな体躯に実った双球を押し上げる様に腕を組み、やがて聞こえてくるであろう喚き声を待った。
「命は盗らない。学習して。全ての攻撃対象が自分達より弱者とは限らない事を」
 静かな。
 落ち着いた。
 憂いを含まない、
 声。
 眉目の整った秀麗な顔つきをした文系少女……誰もが彼女の容貌をその様に捉えるだろう。159cmの背丈に眼鏡。極めつけの発育良好な胸と尻を見せ付けられたら、異性ならば誰でも過剰な迄に性的色香を掻き立てられる。
 取り立てて絶世を詠われる程の美少女足り得ないが、それ以外の韜晦した能力に惹き付けられる人間も存在するかもしれない。
 健康的な黒髪のショート。ボリュームの少ないウルフカットで素直にサラサラと流れている。
 凛とした耀きを湛えた大きな双眸はともすれば、機嫌が麗しくない方が魅力的だと思われる。
 小豆色をしたシンプルなデザインのジャージが上下にワゴンセールで売られている青い運動靴……深い夜中にコンビニに用件が無ければこんな恰好はしなかっただろうに。
 「……軍事用語だと損害3割で全滅。損害5割で壊滅。さて、何割の損害で引いてくれるかしら?」
 呟いた途端。
 四辻の真ん中に立つ真樹の四方から悲鳴と怒声が呻き声と共に夜風を切った。
 真樹の左手首で街灯の灯りを照らし返すハレーションが眼鏡のレンズをチラッと舐める。
 午前1時ジャスト。タイメックスのエクスペディションが報せる。彼女の細い腕には些かアンバランスに大きい男性用アウトドアウォッチだ。
 若い男女が恥も外聞も無く泣き叫ぶ。真樹の位置から何処で誰がどの様な手痛い仕打ちを受けているのか判断する事は不可能だったが、それらの声が此方に向かってくる気配は無い。それ所か半べそで捨て台詞を吐いて遠ざかる足音が聞こえてきた。
 「町内会の皆さん、後片付け、御免なさい」


 「で、逃げたの? 逃げ出したの?」
 翌日、円城真樹は通学する私立北賀陽高校に登校する途中で級友の樋浦美野里(ひうら みのり)と合流して昨夜の一件を掻い摘んで話す。
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