短編拳銃活劇単行本vol.1

□深淵からの咆哮
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 京は短めのマッシュウルフの頭髪が風に靡くのも構わず、端整だと褒め称えられる精悍な顔がほんのり温かくなっているのも気が付かず、身長170cm近い背丈の28歳に似合わず心が躍っていた。文字通りに心臓が口から飛び出しそうなほど躍っている。激しい動悸。忘れて久しい鼓動。
 何よりも後日になって驚いたのが、自分があの時に喫煙者だと云う事が直ぐにばれて嫌われやしないかと云う恐怖が湧きあがってきた事だ。シガリロの口臭も化粧品による体臭も風による身形の乱れも心の片隅にも無く、京は、彼女の前に立ち、臆面も無くこう言った。
「宜しかったら少し歩きませんか?」
 言ってから数瞬の後に、彼女は漸く人形ではない証拠に温かい表情を浮かべて恥ずかしそうに頷いた。
 そして更にその数瞬後。京はもっと気の利いたナンパの台詞があるだろう! と自己嫌悪に陥る。更に数瞬後、「これはナンパしたの? ナンパが成立するシーンなの?」と脳内を疑問符で埋め尽くされる。恥ずかしいのか焦りなのか何なのか解らない鼓動の高鳴り。小娘のようにはしゃぐ自分と小娘のように恥らう自分が同時に旧い記憶からサルベージされて気分が若返る。自分もまだこんな感情を抱く事が出来たのだという驚き。いい歳した三十路手前の曲に。
「あら。可愛いナンパですね」
 彼女は小春日和が到来したかのような小さな微笑みを浮かべる。最初は戸惑っていた表情を浮かべていたがそれも直ぐに消えて京を受け入れた。京は彼女に可愛いナンパだと肯定されただけで心臓が破裂しそうなほど顔が赤くなった。自分でも耳まで赤くなっているのが体感で解る。
「!」
 彼女は自分から名乗りを挙げることも無く。自分の都合を語ろうともせずに都の毛糸の手袋を皮の手袋越しに握って、自然な仕草で京にエスコートを促す。京もそれに態度で示す。彼女の手をとり、彼女を優しくベンチから立たせて惜しむように指先を彼女の手袋から離す。
「……え」
 京は不意に彼女が自分の右腕に腕を絡ませて可愛らしく小首を傾げていた。今から何処かへ連れて行ってくれるんでしょう? 彼女の切れ長の瞳はそう語っていた。京はこうなったら行くところまで行けと自分を鼓舞させる。自分から声を掛けておいて此処で逃げ腰になっては何も始まらないばかりか単なる敗残兵だ。
 京と彼女は爪先を喫茶店に向けた。エスコート役の京としてはとりあえず暖かい場所へ移動がセオリーだと判断したのだ。
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