短編拳銃活劇単行本vol.1

□驟雨の前に珈琲を
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 駆ける。地面を蹴る。駆ける。走る。低い姿勢から駆け上がり大きく跳ねる。
 彼女、八木望実(やぎ のぞみ)は折角の実りに実った胸を戒めの奥に封じ込めて夜の街を走る。
 走る。夜の街を走る。繁華街を走る。人込みで雑踏が埋まる時間に彼女は走る。彼女には道や路や途の概念が通用しない。両足が衝くのなら、足の裏から発生する反動を前進に伝えて走る事が出来るのなら何処でも道だった。
 彼女は走る。時には駆けて時には跳ねる。
 八木望実と云う身長170cmの人物が、今年28歳に成り、伸び始めたセミロングを後頭部でゴムで纏める人物は、頬を走る汗をも弾けさせて、ビルの屋上を走っていた。景観法で決められた高さのビル群。飲食店や金融会社の入るネオン街の文字通り裏側。屋上を走る。直ぐにフェンス。そのフェンスすらも疾駆する勢いを殺さずに網目の隙間に爪先を掛けて駆け上り、屋上の縁に立つ。然し、彼女は止まらない。
 大きく呼吸を吸い込みつつ両手を大きく広げて高さが同じの隣のビルの縁へと飛び立つ。
 鳥でもない彼女に滑空や羽撃の能力は無い。滞空時間もこの程度の距離ならば重力が全ての地球上では大した意味を成さない。
 ビルとビルの間。作業員用の細い路地を挟んでいても5mは離れている。
 彼女はサイケデリックな輝きを放つネオンの裏側の世界で投身自殺さながらの思い切りを見せた。
 そして、爪先は隣のビルの縁へ……届かない。
 50cm以上の間隔を空けて彼女の体はビルの縁から遠ざかる。
 だが、彼女の右手の指先の第一間接が辛うじてビルの縁を掴み、落下の速度を大幅に殺した。左掌を鳩尾の位置で広げて体がビルの壁面に衝突するのを緩和する。彼女の下半身では鈍い音がする。人間の骨肉では再現できない衝突音。カーゴパンツの下に装着した両膝のニーパッドがビルの壁面を同時に叩いた。彼女の体に掛かる負荷や衝撃は可也軽減され、頃合を見計らって、彼女は自分から命綱とも言えた右手の指先を解放した。
 今度こそ彼女は7階建てのビルの屋上付近から落下した。落下ではあったが、その距離は極端に短かった。
 2mの落下。足下は窓から突き出たエアコンの室外機。勿論、違法に設置された物だ。表向きと表看板は零細企業や飲食店が入るテナントビルだったが、図面上倉庫として扱われているはずの僅かなスペースは不法滞在者の居室として宛がわれている。
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