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□どうかどうか、忘れることを覚えていて
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思えばいつだって、彼は気の遠くなるような時を過ごしてきた。彼と出会った人間が、生きて、そして命を終えるそのときを、彼は見てきたのだ。
そんな彼が、今一番興味を示すもの。それは人間。まだ若い、一人の男だ。彼は日本人であったが、その男は外国人。しかもマフィアである。名をディーノといって、イタリアのキャバッローネというファミリーを担うボスであった。
弱い人間―所謂、草食動物に値するはずの彼は、部下がいるときには百八十度変わって本領発揮する。その強さは、雲雀に匹敵するほど。
「恭弥」
ふと、未だ眠気の覚めないディーノが彼の名を呼んだ。何気なく伸ばした左腕には、無限のように続くタトゥーが目立つ。そのディーノの手は、彼の、雲雀のシャツを掴んだ。
「なに?」
雲雀が面倒くさそうに振り返れば、彼の眼にはベッドからこちらを見上げるディーノの姿。その口の端がつり上がっているのが気に食わなくて、雲雀は彼の手を振り払い、笑うなと指摘した。
「怒るなよ。…もう、行くのか?」
「…」
雲雀はキングサイズのベッドを陣取るディーノを押し退け、自分もシーツに包まって、しかしいまだにニヤニヤしている彼からは背を向けて言った。
「今日は何もしたくない気分だよ」
「そっか。それはよかった」
ディーノは優しくほほ笑んで、雲雀の髪を撫でる。
「オレも今日は、お前とゆっくり過ごしたいと思ってたんだ」
と、だらしのない顔で言う。そんなディーノの手を欝陶しそうにまたまた払いのけて、雲雀は眼を閉じた。
「なぁ、恭弥」
「…しつこいね、あなたも」
ゆっくりと、しかし不機嫌なのが目に見えてわかるほどに顔をしかめて、雲雀は一度閉じたはずの瞳を開けた。文句を垂れながらも結局は話を聞いてくれる彼の性格を知ってか、ディーノが遠慮して謝ることはなかった。
「…なに」
「前に、オレに言ったよな。人間の生というものを見てきたって」
「…」
「お前と出会った人間が、生きて、そして死ぬ時を…恭弥は見てきたんだよな?」
「…それが?」
「恭弥と出会った人間が、最期にお前に口にした言葉って、何だったんだ?」
「…ずいぶん変わったことを聞くんだね、あなたも」
それを聞いて何になる。雲雀は真っ先にそう思い、間を置かずにディーノにその旨を告げると、彼の顔に張り付いていた笑みは消え、なんとも言えないほどに情けないものになっていた。ただ、雲雀にはそれが見えない。
「いいから、教えてくれ」
「…」
雲雀は相も変わらずディーノから背を向け、つまらなそうに息をつく。しかし頭の中では、ずっと、はるか昔―ディーノと出会う前の、それこそ彼が生まれる前のことを思い描いている。
今と同様に、他人と群れる気など皆無であった雲雀。彼は当然のごとく草食動物とやらを咬み殺し、そしてまた独りであった。
しかしそんな雲雀にも、やはり他人を惹き付ける何かを持っていたのだろう。その何かは彼自身わからないが、雲雀に魅了された人間達はこぞって彼に近づいてきた。
「…みんな、同じだったよ」
「え?」
数分の間を置いて、雲雀はゆっくり小さく口を開く。ディーノはそれを聞き逃すまいと、彼により密着した。その仕種を欝陶しいと感じながらも、雲雀は敢えて抵抗はしない。
「…僕に近づいてきた奴らは、死に際にみんな同じことを言ったよ」
「…そっか」
「…?」
雲雀はひとり、眉をしかめた。ディーノは相槌を軽く打っただけで、その先を聞こうとはしなかったからだ。自らが話をするよう持ち掛けておきながら、ずいぶんな態度だと、雲雀は心の中で悪態をつく。
ただ、そこで会話が途切れたならば、その時はそれで終わればいいと、そうすればゆっくり寝ることができる。雲雀はそう思って再び眼を閉じようとした。その時だ。
「忘れてくれ」
「?」
ディーノの不可解な台詞に、雲雀の目は柄にもなく真ん丸になる。普段のディーノならばそれを可愛い等と言ってからかうところだが、それをしないのは何か思うことがあるのだろう。雲雀は続きを促した。
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