□『牛をつないだ椿の木』
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一
山の中の道のかたわらに、椿の若木がありました。
牛曳きの利助さんは、それに牛をつなぎました。
人力曳きの海蔵さんも、椿の根本へ人力車をおきました。
人力車は牛ではないから、つないでおかなくってもよかったのです。
そこで、利助さんと海蔵さんは、水をのみに山の中にはいってゆきました。
道から一町ばかり山にわけいったところに、清くてつめたい清水がいつも湧いていたのであります。
二人はかわりばんこに、泉のふちの、しだやぜんまいの上に両手をつき、腹ばいになり、つめたい水の匂いをかぎながら、鹿のように水をのみました。
はらの中が、ごぼごぼいうほどのみました。
山の中では、もう春蝉が鳴いていました。
「ああ、あれがもう鳴き出したな。あれをきくと暑くなるて。」
と、海蔵さんが、まんじゅう笠をかむりながらいいました。
「これからまたこの清水を、ゆききのたンびに飲ませてもらうことだて。」
と、利助さんは、水をのんで汗が出たので、手拭いでふきふきいいました。
「もうちと、道に近いとええがのオ。」
と海蔵さんがいいました。
「まったくだて。」
と、利助さんが答えました。
ここの水をのんだあとでは、誰でもそんなことを挨拶のようにいいあうのがつねでした。
二人が椿のところへもどって来ると、そこに自転車をとめて、一人の男の人が立っていました。
その頃は自転車が日本にはいって来たばかりのじぶんで、自転車を持っている人は、田舎では旦那衆にきまっていました。
「誰だろう。」
と、利助さんが、おどおどしていいました。
「区長さんかも知れん。」
と、海蔵さんがいいました。
そばに来てみると、それはこの附近の土地を持っている、町の年とった地主であることがわかりました。
そして、も一つわかったことは、地主がかんかんに怒っていることでした。
「やいやい、この牛は誰の牛だ。」
と、地主は二人をみると、どなりつけました。
その牛は利助さんの牛でありました。