□『張紅倫』
1ページ/9ページ
一
奉天《ほうてん》大戦争(一九〇五年)の数日まえの、ある夜中のことでした。
わがある部隊の大隊長青木少佐は、畑の中に立っている歩哨《ほしょう》を見まわって歩きました。
歩哨は、めいぜられた地点に石のようにつっ立って、きびしい寒さと、ねむさをがまんしながら、警備についているのでした。
「第三歩哨、異状はないか」
少佐は小さく声をかけました。
「はっ、異状ありません」
歩哨のへんじが、あたりの空気に、ひくく、こだましました。
少佐は、また、歩きだしました。
頭の上で、小さな星が一つ、かすかにまたたいています。
少佐はその光をあおぎながら、足音をぬすんで歩きつづけました。
もうすこしいくと、つぎの歩哨のかげが見えようと思われるところで、少佐はどかりと足をふみはずして、こおった土くれをかぶりながら、がたがたがた、どすんと、深いあなの中に落ちこみました。
ふいをくった少佐は、しばらくあなのそこでぼんやりしていましたが、あたりのやみに目もなれ、気もおちついてくると、あなの中のようすがうすうすわかってきました。
それは四メートル以上の深さで、そこのほうがひろがっている、水のかれた古井戸だったのです。