□『張紅倫』
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  一


 奉天《ほうてん》大戦争(一九〇五年)の数日まえの、ある夜中のことでした。
 
わがある部隊の大隊長青木少佐は、畑の中に立っている歩哨《ほしょう》を見まわって歩きました。

歩哨は、めいぜられた地点に石のようにつっ立って、きびしい寒さと、ねむさをがまんしながら、警備についているのでした。

 「第三歩哨、異状はないか」

 少佐は小さく声をかけました。

 「はっ、異状ありません」

 歩哨のへんじが、あたりの空気に、ひくく、こだましました。

少佐は、また、歩きだしました。

 頭の上で、小さな星が一つ、かすかにまたたいています。

少佐はその光をあおぎながら、足音をぬすんで歩きつづけました。

 もうすこしいくと、つぎの歩哨のかげが見えようと思われるところで、少佐はどかりと足をふみはずして、こおった土くれをかぶりながら、がたがたがた、どすんと、深いあなの中に落ちこみました。

 ふいをくった少佐は、しばらくあなのそこでぼんやりしていましたが、あたりのやみに目もなれ、気もおちついてくると、あなの中のようすがうすうすわかってきました。

それは四メートル以上の深さで、そこのほうがひろがっている、水のかれた古井戸だったのです。
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