□『うた時計』
1ページ/6ページ
二月のある日、野中のさびしい道を、十二、三の少年と、皮のかばんをかかえた三十四、五の男の人とが、同じ方へ歩いていった。
風がすこしもないあたたかい日で、もう霜がとけて道はぬれていた。
かれ草にかげをおとして遊んでいるからすが、ふたりのすがたにおどろいて、土手をむこうにこえるとき、黒い背中が、きらりと日の光を反射するのであった。
「坊《ぼう》、ひとりでどこへいくんだ」
男の人が少年に話しかけた。
少年はポケットにつっこんでいた手を、そのまま二、三ど、前後にゆすり、人なつこいえみをうかべた。
「町だよ」
これはへんにはずかしがったり、いやに人をおそれたりしない、すなおな子どもだなと、男の人は思ったようだった。
そこでふたりは、話しはじめた。
「坊、なんて名だ」
「れんていうんだ」
「れん? れん平《ぺい》か」
「ううん」
と、少年は首を横にふった。
「じゃ、れん一か」
「そうじゃないよ、おじさん。ただね、れん[#「れん」に傍点]ていうのさ」
「ふうん。どういう字書くんだ。連絡《れんらく》の連か」
「ちがう。点をうって、一を書いて、ノを書いて、ふたつ点をうって……」
「むずかしいな。おじさんは、あまりむずかしい字は知らんよ」
少年はそこで、地べたに木ぎれで「廉」と大きく書いてみせた。
「ふうん、むずかしい字だな、やっぱり」
ふたりはまた歩きだした。
「これね、おじさん、清廉潔白《せいれんけっぱく》の廉て字だよ」
「なんだい、そのセイレンケッパクてのは」
「清廉潔白というのは、なんにも悪いことをしないので、神様の前へ出ても、巡査につかまっても、平気だということだよ」
「ふうん、巡査につかまってもな」
そういって、男の人はにやりとわらった。
「おじさんのオーバーのポケット、大きいね」
「うん、そりゃ、おとなのオーバーは大きいから、ポケットも大きいさ」
「あったかい?」
「ポケットの中かい? そりゃあ、あったかいよ。ぽこぽこだよ。こたつがはいってるようなんだ」
「ぼく、手を入れてもいい」
「へんなことをいう小僧《こぞう》だな」
男の人はわらいだした。
でも、こういう少年がいるものだ。
近づきになると、相手のからだにさわったり、ポケットに手を入れたりしないと、承知ができぬという、ふうがわりな、人なつこい少年が。
「入れたっていいよ」
少年は、男の人のがいとうのポケットに、手を入れた。
「なんだ、ちっともあったかくないね」
「はっは、そうかい」
「ぼくたちの先生のポケットは、もっとぬくいよ。朝、ぼくたちは学校へいくとき、かわりばんこに先生のポケットに手を入れていくんだ。木山先生というのさ」
「そうかい」
「おじさんのポケット、なんだか、かたい冷たいものがはいってるね。これなに?」
「なんだと思う」
「かねでできてるね……大きいね……なにか、ねじみたいなもんがついてるね」
するとふいに、男の人のポケットから美しい音楽が流れだしたので、ふたりはびっくりした。
男の人はあわてて、ポケットを上からおさえた。
しかし、音楽はとまらなかった。
それから男の人は、あたりを見まわして、少年のほかにはだれも人がいないことを知ると、ほっとしたようすであった。
天国で小鳥がうたってでもいるような美しい音楽は、まだつづいていた。