□下 『先生と遺書』
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     一

「……私はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。

東京で相当の地位を得たいから宜しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入ったものと記憶しています。

私はそれを読んだ時何とかしたいと思ったのです。

少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。

しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。

ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。

しかしそれは問題ではありません。

実をいうと、私はこの自分をどうすれば好いのかと思い煩っていたところなのです。

このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。

馳足で絶壁の端まで来て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のように。

私は卑怯でした。

そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶したのです。

遺憾ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。

一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。

どうでも構わなかったのです。


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