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□安芸武田家の最期-天城蛍回想録-
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私たちのことをお話しますと…そうですね、どこからが良いでしょうか?

お聞きになりたいのは、安芸から甲斐へ参った経緯でしょうが…そこへたどり着くまでに、少々複雑な事情がありまして。

そうですね、では、少し長くなりますが…あの有田中井手の戦いから始まった、私たちの…いえ、安芸武田家の数奇な運命について、私の見解をお話しましょうか。


あの戦は、失った守護大名としての権威を取り戻すために、安芸武田家と毛利家が争ったものです。
あの時は、毛利の当主はわずか2歳の少年で、簡単に落とせると踏んだのでしょう。

武田元繁さま…みずち姉さんのお祖父様に当たる方ですね。元繁さまは、熊谷元直氏をはじめとした大勢の部下と共に、毛利を倒そうとしました。
しかし、毛利家は…いえ、この時当主の後見人となっていた、前当主の弟・毛利元就は、一筋縄ではいかない男でした。
簡単に勝てるであろうと踏んでいた戦は、戦力ではこちらが有利であったにもかかわらず、逆境に立たされ…ついには、壊滅寸前に押されてしまいました。

そこへ現れたのが、救世主―こう申しますと、ご本人はこそばゆいと仰るのですが…一人の女武者が戦場に現れたと思うと、武田に加勢し、毛利を攻めたのです。
再び戦況はこちらへ向いたと思われましたが、その前に大将であった元繁さまが討ち取られ、武田は引くしかありませんでした。

敗北には違いありませんでしたが、あの時大蛇さまが来て下さらなかったら、もっと酷い事態に陥っていたことは間違いないでしょう。
大蛇さま…その女武者が何故、何のために武田に加勢したのか、私は知りません。
おそらく、ご本人は「深い意味などない」と仰るでしょうが。


とにかく、元繁さまが亡くなり、家督は嫡男の光和さまが継がれました。

余談ですが、私の父は光和さまの友人でした。
他の家臣の方達と違い、武田家へ仕えていたというよりは、あくまで光和さま個人の相談役というか、そういう立場でして…公式な場での発言力は、殆どなかったようです。

武田家の恩人とも言える大蛇さまは、そのまま安芸に留まり、武田家にお住いだったそうです。
大蛇さま、というのは通り名というか…誰かが勝手に付けた名前のようで、本当のお名前はお長さまとおっしゃるそうです。
もっとも、ご本人が自ら「大蛇」と名乗られ、娘に「蛟」と名付けたくらいですから、その通り名を気に入ってらしたのでしょうが。

その後も、大内氏の侵攻など、色々なことが武田を襲いましたが、大蛇さまのお力はたいそうなもので、大した被害もなく撃退できたそうです。


そんな状態を、もちろん快く思ってない人もいました。
先の有田中井手合戦で、父である熊谷元直氏を亡くした嫡男の熊谷信直も、その一人です。

大蛇さまも、ああいった性格の方なので…ああ、みずち姉さんを想像して、更に攻撃的にしたといいますか。
こう言ったのは、姉さんには内緒にして下さいね?

とにかく、そういった意味でも反発を買うことはあったと思いますが、信直の妹は光和様の正室でした。
当然、側室でもないのに光和さまの傍にいる大蛇さまが目障りだったのでしょう。

また、例の大内氏への反撃のため、毛利元就の下で戦っていたようで…その際、後々のことを考えて、毛利についた方が確実だと考えたのでしょうね。

武田家と熊谷家の仲は悪化するばかりで、一時期は他の家臣が熊谷信直を暗殺しようとしたこともあったそうです。
もちろん、失敗したわけですが。

そんな中、みずち姉さんが生まれました。
血筋的には、間違いなく安芸武田家の嫡流。
しかし、母親は正室どころか側室でもない大蛇さまであり、ただでさえ熊谷と揉めていたこともあって、光和さまは姉さんの存在を公にすることが出来ませんでした。

しかも、何があったのかは存じませんが…大蛇さまは、姉さんが生まれてすぐ、武田家を出て行かれました。

みずち姉さんは、「どうせ武家の暮らしが合わなかったんだろ」と気楽に言いますが…多分、姉さんの言うとおりでしょうね。
もちろん、時々は戻ってこられて、私とも遊んで下さいました。

姉さんが生まれて1月後くらいに、光和さまの部下である陰陽師の元にも、子どもが生まれました。
それが、私です。

私の両親は、2人とも陰陽師の家系の出身です。
安芸には同じ系統の陰陽寮がなかったようで、どこへ所属するわけでもなく、ただ家で陰陽道の教えを伝えてきました。

大蛇さまは、元々は神職の家系のご出身だそうで、私の母とは仲が良かったようです…もっとも、母は私が物心つくかつかないかの頃に亡くなりましたので、よくは知りませんが。

そんなわけですから、必然的に私の母がみずち姉さんの乳母となり、私たちは乳姉妹として共に育ちました。
一応、私の方が従者ですが、あまり格差を感じないと言われるのは、そのせいですね。

みずち姉さんの存在は、公にはされませんでしたが、もちろん武田家家臣たちの間では知られたことでした。
それを最も面白くないと思うのは、間違いなく熊谷でしょう。
しばらくして、光和さまは熊谷信直の妹と離縁されました。

そういった生まれを、みずち姉さんは特に不幸とも思っていないようです。
多くの家臣が大蛇さまをよく思わず、その延長で姉さんは乳飲み子の頃から疎まれてすらいましたが…少なくとも、光和さまは一人娘である姉さんを、それはそれは大切にされていましたから。

話を戻しますが、そんなわけで、私たちは安芸の大自然の中で、のびのびと育ちました。
あくまで、立場を考えれば、のことですが。

むしろ、嫡子でないことから、姉さんには自由に生きられる未来が用意されていたと思います。
世が世なら、まったく違う人生を送っているかも知れません。

私たちの運命を大きくねじ曲げたのは、あの時…武田と熊谷とが完全に分裂するに至った、あの事件の時です。
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