Library B
□くだけてものを、思ふころ
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「朱雀さま、毛利のおかた様が、お亡くなりに」
香がその知らせを持ってきたのは、暦も変わろうという真冬のことだった。
自室で書の稽古をしていた私は、その言葉に筆を落としていた。
ふと、一月前の次郎殿…元春さまの言葉を思い出す。
―もってあと一月…この冬は越えられぬかもしれん。時とは、残酷なものだな―
「…朱雀さま?」
香に話しかけられ、やっとのことで我に返る。
私としたことが。
「ごめんなさい、香。それで、お父様は?」
「すでに、毛利のお館へお発ちになりました。今晩から通夜、ご葬儀は明日とのことですが、朱雀さま。いかがなされますか?」
本来であれば、跡取りの息子たちはともかく、家臣の娘に過ぎない私が、参列することもない。
しかし、毛利のおかた様には幼少の頃より、大変よくしていただいた。
実の母のいない私にとって、恐れ多くも母親のような方であった。
次郎殿や徳寿丸殿と共に遊ぶ私に向けて下さった、優しい笑顔…思い出すと胸が苦しくなり、胸元に手をやって息を吐いた。
「朱雀さま!」
「心配ないわ、香…。毛利のおかた様には、ご恩があります。父上、兄上とは別に、せめてお焼香に伺います。共に来てくれるわね?」
「はい。承知いたしました」
ではまた、後ほど。そう言って、香が下がる。
自分以外に誰も居なくなった部屋で、私は筆を置き直した。
急に、涙が溢れて止まらなくなる。
何故、おかげんが悪いと知っていて、もっと早くにお目に掛かろうと思わなかったのだ。
一家臣の娘の分際で、領主の奥方様になど、そう簡単には会わせていただける身分ではなく、遠慮していたこともあった。
それでも、私が何かの機会で顔を出せば、とても喜んで下さったおかた様…。
こぼれ落ちる涙が、硯の中に落ちる。
急に、昔のことが思い出された。