無気力な将軍と韋駄天。
□2、少年と少女
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第二音楽室の静寂が、抑揚の無い一言によって破られる。
「――もう一回、やり直しだ」
それを聞いて、目の前の小柄な少女は肩を落とした。
少女の音痴っぷりは小年の想像をはるかに超えていたため、練習二週間目にして進んだのは課題歌の半分だ。
発声の練習やリズムの取り方などに一週間が消え、時間が無いというのに、少女のやる気は衰えを見せ始めていた。
「……なんであたしって、こんなに歌下手なんだろ」
一週間目で初めての少女の弱気な発言に、少年は鼻を鳴らす。
「ホントにな。今まで何をやってたんだか」
事実を言ったまでだが、少女は気分を害したようにむっとした顔をする。
「……何も、そんな風に言わなくたって」
「じゃあ、慰めの一つでも言えばいいのか? それでおまえの歌が上達すんのかよ」
ぐうの音も出ないらしい少女は、悔しげに唇を噛んで俯いている。その様はまるで子供だ。
いつまでも落ち込まれているのはうっとうしい。少年はピアノを弾く手を止めた。
「いいか。おまえの歌は、基礎がなってない。技術は、努力すれば必ず身につく。声は綺麗なんだから、弱音吐いてる暇がったら発声練習でもしろ」
分かったか、と少年が顔を上げると――少女は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていた。
「……ショーグンも、優しいこと言えるんだね」
そりゃどういう意味だ。 思わず目が尖る。
少女は下手な口笛を吹きつつ、ふいと目を逸らした。
「それよりさぁ、どうしてショーグンはこんなにピアノ上手いのに、落ちこぼれ呼ばわりされてんの?」
多分、大した考えもなく出た一言だろう。軽く流せば済む話なのに、思わず手が止まってしまった。
「……ショーグン?」
少女が怪訝な視線を向けてくる。
少年は動揺を悟られないよう、すぐさま指を動かすが、少女の視線が頬に痛い。
放っておけばそのうち諦めるだろうと無視していたが、少女は穴が開くほど少年を見ている。ものすごい執念のこもった視線だ。
しょうがなく、少年は口を開いた。
「……簡単だ。ピアノの腕がねぇからだよ」
少年の返答に、少女はわかりやすく不満を露わにする。
「それって、嫌味? ショーグンのレベルでそうなら、他の人なんて問題外になっちゃうよ」
少年は、何の感情もこもらない目で少女を見返す。
「……技術の問題じゃねぇよ。中身の問題だ」
そう言いながら、少年はある言葉を思い出す。
――おまえの技術は凄い。だが、それだけだ。訴えかけてくるものが何もないんだ。
――そんなまやかしの演奏で、人の心は動かない。
そう、あれは二年前のコンクール。ピアノを弾いて、そんなことを言われたのは、初めてだった。
ずっと天才ピアニストとして持ち上げられてきて伸びに伸びきった鼻を、世界で一番尊敬していた人にへし折られた。
あの日を境に自信もプライドも、瓦解してしまった。
あの言葉を思い出すたび、鍵盤を叩く指が重くなる。
忘れようとしてもピアノを弾いている限り、あの言葉が何度でも少年の心を抉(えぐ)る。
もう、限界だった。だから決めたのだ。ピアノを弾くのはこれが最後にしようと。
その決意を形にしたものが、胸の裏ポケットに押し込んである。
「どんなに技術があっても――俺のピアノは、空っぽなんだ」
俺みたいにな、と少年は心の中で呟く。
――と。
「そんなことないよ」
少女は、至極当然な事実を語るように、きっぱりと断言した。
真っ直ぐに少年を射抜いて、莞爾(かんじ)と笑う。
「あたしは……ショーグンのピアノ聴くたび、本当に優しくて綺麗な音だと思うもん」
飾り気のない、単純な言葉。だからこそ、裏表も見えない。
呆然とする少年を尻目に、少女は大きく伸びをすると発声練習を始めた。
少年は柄にもなく慌ててピアノの鍵盤を叩く。口許に滲んでくる笑みを堪えるのには、かなり苦労した。