無気力な将軍と韋駄天。
□1、始まりはクリームコロッケ
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少女は、半ベソをかいて思っていた。なぜ、こんな奴の口車に乗ってしまったんだろうと。
少女は今、第二音楽室の中央に立って、歌の練習をしている。
この第二音楽室は随分前から授業にもクラブ活動にも使用されなくなった教室で、すっかり寂れてしまって埃臭い。そんな教室で、少女は歌の練習を一人ではなく、『二人』で行っていた。
そのもう一人は、どっしりと腰を構えたグランドピアノの前に座り、黒白の鍵盤の上で指を踊らせている。
その指が生み出す音は――少女の後悔の念さえ悠々と拭い去ってしまうほど深く、穏やかで美しかった。
――なんであんな奴が、こんな綺麗な音を奏でられるんだろう?
さざめく波のような旋律に心奪われながら、そんなことを考えていると、不意にピアノの音が止んだ。
ん? と顔を上げると同時に、視界に何かが飛び込んでくる。瞬きをする間もなくそれは、少女の額に突き刺さった。
「い…いったあああっ!」
少女は額を押さえて悲鳴を上げる。軽い音を立てて足下に落ちたのは、指揮者の命(?)である指揮棒だ。
誰がこんなものを、と問うまでもない。この空間には、少女を含め二人しかいないのだから。
生まれつきのつり目をさらに吊り上げて、指揮棒を投げ付けた伴奏者を睨み付ける。
「いきなり何すんのよっ、ショーグン!」
艶やかに黒光りするグランドピアノの前に座る、貴公子のよう――ではまるでない寝癖の酷い少年は、大きなあくびをしてイスの背にもたれかかった。
「誰の練習に付き合ってやってると思ってんだ。もっと集中しろ。それからな、そのふやけたクラゲみたいな顔すんのやめろ」
「くっ、クラゲ? そんな顔してないよ!」
少女が肩をいからせ反論する。花盛りの乙女に何を言うのだ、こいつ。
「いーや、してるね。おまえさ、なんで伴奏が始まるとあーゆー顔になるんだ?」
ぼりぼりと頭を掻きながら、少年はこれ見よがしに溜め息をつく。
「そっ、それは…」
あんたのピアノの音がとっても綺麗だったから。なんて口が裂けても言えない少女は、しどろもどろになりながら指揮棒を拾う。
この少年と歌の練習を始めて一週間、こんな調子で試験に間に合うのだろうか、と自分の事は棚に上げて少女は憂鬱になった。
そんな少女とは対照的に、少年は顎に手を当てながら楽譜にチェックを入れている。
その、珍しく真剣な少年の眼差しを見ていると、少女は複雑な思いに囚われた。
少年の音は、少女がこれまで聞いたどの音より――音楽科のエリートと呼ばれる人達の音楽よりも、ずっとずっと綺麗だ。なのに、少年は音楽科の落ちこぼれというレッテルを貼られている。
それがどうしても、少女には理解出来ない。
それと同時に理解出来ないのは、学年一の面倒臭がりで有名な彼が、自分の歌の練習に付き合ってくれていることだ。
――いや、でも。
と、少女は足下に視線を落とす。そこにあるのは、K高校購買部一の人気を誇るクリームコロッケ。これがきっと、奴の原動力なのだと少女は推測していた。