不思議の国のアリス様っ!?

□第1章−5、存在理由って!?
1ページ/2ページ

1.


 深い沼の中にいるような気分だ。手足が言うことを聞かない。体が何かにひどく圧迫されていて、不快なしびれがアリスの意識を突いてくる。あまりの体のダルさに目覚めたくもないが、耳に入ってくる数人の話し声がアリスの覚醒を促した。

「で、いくらで売る?」
「八百ぐらいでどうでしょう。この面ならイケるんじゃないっすか?」
「いや、誰にやられたのかは知らんがかなり傷だらけだからな。値切られる可能性もあるだろう」
「あー、確かに……じゃあ……」

 目の前に見えたのは、何本かの足。視界が横になっているのは、自分が床に転がされているからだと分かった。頬に感じる木張りの床が冷たい。

 億劫さを押して目を上に上げると、五人の男の姿が見えた。

 五人のうち三人が椅子に腰かけ、テーブルを挟んで向かい合い話し合っている。そして、一人が扉の前に立って外を気にしている。これは見張りだろう。そして、残る一人はアリスの傍に座り込んで欠伸をかみ殺している。

 こいつらがどういった集まりなのか、そんなものこの会話を聞かなくても分かる。それぞれにやっていることは違うが、どの目にもぎらついた暗い光が宿っている。

 とりあえず今進められている話は、アリスをいかに高く売り払うかという算段。アリスを「売り物」として考えているなら、拷問などの目に遭う可能性は低いかもしれないが、絶対とは言い切れない。こうした目をした奴らの気分というのが、まるで天気のようにくるくると変わりやすいことは、これまでの旅の中でアリスが得た数少ない知識だ。 

 ざっと見た限り、どの男もすぐ手が届く場所に武器を所持している。今のこの状態で、あれを持ち出されたら、アリスはいともたやすく殺されてしまうだろう。

 そこまで考えて、どっと全身を襲った倦怠感にアリスは目を閉じた。本来なら、ここからすぐにでも逃げ出す算段を考えなければならない筈だ。これまで似たような状況に置かれても、アリスはずっとそうしてきた。しかし、思考がうまく纏まらない。
 

――どうして? 私は、ここで死ぬ訳にはいかないのに。


 アリスは誰とも知れない何者かに、問いかける。その問いかけに答えるものはいない。

 アリスの存在理由。それがアリスのたった一つの行動原理で、これまで培ってきた筈の記憶をなんら持たないアリスの心のよすがだったのだ。

 アリスにたった一つ残されていたもの。

――あの一族を、必ずこの世から殲滅する。

 その願い。強い強い思い。それを叶えること。それしかないからこそ、アリスの行動にはブレがほとんどなかったのだ。

 それなのに――アリスの意思どおりに、アリスの身体は動かない。

(怪我……してるから……?)

 心の中で呟いて、アリスはすぐにそれ否定した。この、絡みつくような無力感は、怪我の痛みから来るものではない。

『死ぬってことがどれほど恐ろしいことか、お前に分からせてやるよ』

 残虐な光を宿しながら弧を描いていた赤茶の目を思い出す。そしてそこから始まった、地獄のような時間。

 カタ。

 小さな音が聞こえたのは、その時だった。

 カタカタカタカタ。

 小さな音は途絶えることなく続く。どこからそれが聞こえるのかと耳を澄まして、アリスは愕然とした。

 その音は他でもない、縄で自由を奪われたアリスの手から発したものだった。小刻みに震える手が気張りの床を叩く音。それが音の正体だった。

(なんで? なんで震えてなんか……)

 この、どうしようもない状況に怯えているのか? まさか、こんなこと、巻き込まれたのは一度や二度ではなかった筈。初めて経験する「感情」に、アリスはそれが自分のものとも思えず混乱していた。

 その混乱に乗じて、それまで完全に安定していたアリスの精神の中に、異物が流入してくる。

 割れた爪から染み出している赤黒い血。その爪の間に埋まる土。全身を襲う鈍い痛み。胃の底からこみ上げてくる酸っぱい嘔気。指先一つ思うままに動かない。

 それらが、ディークに与えられた『恐怖』と『絶望』。アリスはこれまで、あの時ほどになすすべなく一方的に叩きのめされたことはなかった。圧倒的な力の差。振るわれる暴力。それらが「人間」に及ぼす影響というものを、アリスは今己が身をもって痛感していた。

(怖い? そうか、私、怖いんだ)

 たった一人の人間に負けた。圧倒的な力でねじ伏せられた。そんな自分が、本当に『あの一族を殲滅することなど出来るのか』。その思いが、アリスの全ての行動に歯止めを掛けていた。

 『それ』を果たせないのだとしたら、私は何を標に生きていけばいいのか――。

 その自覚は、アリスにこれまで味わったことのない強い恐怖を齎した。体の震えが止まらない。歯の根が合わなくなり、冷や汗が皮膚の上を伝う。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ