本当に普段着のきものを

昨今インターネットや出版物等で、男のきものに関する情報が、徐々に増えてきたように思います。

しかしながら、その多くは、販売者側からの情報、或いは、礼装やファッションとしての情報であり、消費者側からの普段着のきものに関する情報は、未だ極僅かであると思います。

これは取りも直さず、普段着として日常生活の中できものを着る人が、今では極僅かしか居ないからに他なりません。

日本人の衣類として、古来より長い歴史を持つきものが、ある特殊な用途としてのみ着られる装束となり、日常の衣類として着られなくなると云う事は、衣類としての伝承が絶えてしまう事を意味します。

現実に、江戸〜明治時代の農民や職人等庶民の衣類としてのきものが、現代正確に伝承されているとは、とても云えませんね。

現在数多有るきものに関する情報も、古来の武士や豪商等のきものに端を発する物が殆どです。

例えば、江戸時代後期に浴衣と云えば、その多くは袂を縫わない広袖だった、と喜多川守貞の「近世風俗誌」にあります。
また、単や薄物の代わりに浴衣を着る庶民もいた、とあります。

「浴衣はそもそも湯上がりに着る湯帷子で、昼間の外出に着るなんて、最近の人は云々」と云う人が今日少なくありませんが、実は江戸時代にも浴衣は庶民の常着だったのです。

例えば、豪商等富裕層は正絹の紋服を着ていたが、庶民や農民は紬や木綿の紋服を着ていた、と「近世風俗誌」にあります。

「紬は普段着だから式には着れません云々」と云う人が今日少なくありませんが、実は江戸時代にも紬は庶民の一張羅の一つだったのです。

昨今、庶民的な日常の衣服としてのきものに関する情報は、かくの如きに歪められておるのです。

格式を重んじる武家や、着道楽の商家の旦那のきものでは無い、極慎ましやかで日常の、大多数庶民の衣服としてのきものを、正しく認識し伝承する事が、正しい日本文化の門戸開放の鍵になりましょう。

先人の遺風を伝えるは吾人の務め

さて、伝統を蔑ろにし、伝承が途絶えると、如何なる弊害があるでしょうか。

例えば昨今、日本語の乱れが問題視されております。
カタカナ語の乱用、読み書きが出来ない、敬語が使えない等々。
家庭や学校で、正しく教育されていても、乱れが生じるのです。

教育の場が持たれておる物でも乱れるのですから、正しい教育、正しい伝承がされていない物であれば、その実態は如何に乱れておるか、容易に察せられるでしょう。

日本古来の文化風俗慣習常識等々もまた、欧米追従の風潮により軽んじられ、乱れが生じています。
国際化社会と云う言葉に踊らされ、自国の伝統を軽んじて、果たして真の国際人足り得るでしょうか?

自国の伝統を重んじる、例えば英国やアラブ諸国の人達は、自国の民族衣装を着ず自国の慣習を軽んじる人を見て、少なからず軽侮の心を持つでしょう。

徳川幕府に代わった明治新政府は、明治五年に新しい日韓の国交について協議する為、副島大使が渡韓しましたが協議は決裂。
事は明治七年の江華島事件に繋がり、以来日本は亜細亜の中で孤立化したのです。

この日韓国交の躓きの原因を、当時の韓国の李王朝側はこう指摘しています。
「日本は新政府を樹立し、欧米の植民地支配に抗する為、韓国や中国と連携すると云うが、髷を落とし洋服を着た、欧米人の如き姿の日本人等信用出来ない。」

これは何とも的を得た指摘です。
対応に苦慮した明治政府は翌明治六年、西郷隆盛参議兼陸軍大将が事の解決に乗り出して、閣議でこう述べたのです。

「李王朝の云う事も道理であるから、遣韓使節は日本の礼装である烏帽子直垂を纏い、身に寸鉄帯びず、礼節正しく交渉にあたるべきである。」

西郷大将が認めた通り、自国の伝統を蔑ろにする人は、国際舞台で信用を得られないのです。
自国の伝統すら理解出来ない人が、他国の事など理解出来るはずも無いからです。

こうした考えは、仏教やキリスト教にも共通する、「己を知れ」「隣人を愛せ」等の概念にも通じる物ではないでしょうか。

己を知ると云うのは、自分の中に流れている血を知る事です。
そして、その血の中に流れているのは、先祖代々より受け継いだ遺伝子、即ち偉大な先人の遺風に他ならないのです。

懐古趣味では無く未来指向の復古主義

古き良き物を云々…と話をしますと、単なる懐古趣味だ、保守主義だと拒絶する人も少なく無いかもしれません。

しかしながら、先人の遺風に学ぶ温故知新の精神とは本来、単なる懐古趣味とは相容れ無い物です。

例えば、化学繊維の洋服こそ今日的で、天然繊維のきものは懐古趣味だと、指摘する向きがあるかもしれません。
しかしながら、ポリエステルやアクリル等は燃やせば有害、埋めても有害、安価で便利な繊維ではあるが処分に困る物です。
日本の狭い国土の中で、これら捨てるに捨てられない物を、大量生産大量消費されては、ゴミ処理能力が限界に達するのは自明の事です。

また洋服と云うのは、その縫製過程から端切れのゴミを多く発生します。
作られる時からゴミを出し、短い流行り廃りの流れでゴミにされ、体型変化に追従しにくい為にゴミにされ、かくして夢の島が出来上がった訳ですが…

このまま科学物質に囲まれた大量生産大量消費の暮らしを続け、東京湾を陸続きにすれば、それで済むと思いますか?

これは断じて済みません。

ゴミの減量化に、国民皆が真摯に取り組まなければ、日本全土が夢の島になってしまいます。
現実に我が国のゴミ処理能力はとうの昔に限界を超えており、不法焼却や不法投棄による自然破壊が後を絶たないのです。

なぜ今きものなのか?
なぜ今日本古来の姿に学ぶのか?

それは、眼前に広がる現実の社会問題を解決し得る一つの答えが、先人の暮らしの知恵の中に、ハッキリと見いだせるからなのです。

きものは、その特徴的な構造により、縫製過程で端切れを殆ど発生しませんし、発生した端切れは掛け衿等の交換用に再利用されます。
また、きものは縫い糸を解けば、四角い布に戻る為、体型に合わせた再生が容易で、着古した後も雑巾等々への再利用も容易なのです。
また、絹や木綿やウール等の天然繊維を、天然染料で染めたきものは、燃やしても埋めても、灰になり土に還り無害です。

環境に優しい未来指向の、地産地消の暮らしが見えてくるのです。

願いは子々孫々末代までの恒久和平

日本語には「衿を正す」「折り目正しく」等々、きものに由来する言葉が数多有ります。
日本の礼儀作法には、きものを着ている事が前提の、立ち居振る舞いが数多有ります。

実体験として、きものに袖を通す事で、日本語や礼儀作法への理解が、実のある物へと深まります。
これは日本人としての人格形成に、多大に貢献する事でしょう。

また、日本古来の言葉や作法を学ぶ事から発展し、その深源にある武道や儒学や朱子学、茶道や上方文化や元禄文化等々に触れる事は、祖国に対する理解と知識を深め、知性と教養有る日本人の育成に繋がるでしょう。

また、自然環境保護を目的とし、車や電気や使い捨て製品に頼らない、人や自然に優しい暮らしを実践する際にも、きものに袖を通す事で得た、古来から伝わる人々の暮らしの知恵が、大いに貢献するでしょう。

勿論、昔ながらのきもの其れ自体が、人や自然に優しい衣類であり、常着として袖を通す事が、環境保護に繋がる事は云うまでも有りません。


きものに袖を通す事により得られる物は、計り知れない程大きいのです。

きものは敷居が高い云々、きものは値段が高い云々…
これら俗説が、殆ど無知と誤解と偏見による事実誤認である事は、当塾をここまで読み進めて下さった賢明な御方であれば、既に御理解の事でしょう。


世界の恒久和平実現の為、地球温暖化対策の為、国際連携、国際化社会が叫ばれる今だからこそ、私達日本人は、様々な潮流に惑わされる事の無いよう、先ず日本人としての足場を固め、そして古今東西に揺るぎない、人道的道義的な道徳心を、研鑽し習得し発揮して、世界の人々の見本となるよう堂々誇りを持って、世界の為に日本の為に郷土の為に家族の為に、働かなければならないのです。

これこそ漢たる者の務めではないでしょうか。

そして、日本に生まれた漢たる者が身に纏うべきは、先祖代々より受け継いだ、きものの他有りません。

きものなんて、本当に安くて簡単で男らしくて、尚且つ有益な、しかしただの服なんですよ。
どうか皆さん、きものはお高い特別な装束だとする悪習を打ち払い、日本の誇りある服を、日本を護る意気を纏いましょう!

これが、当塾を立ち上げました、私の意気で御座います。
最後迄、お読み下さりまして、有難う御座いました。

皇紀二千六百六十九年三月吉日

  和亭笑次郎 拝




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